11 「そして私は見た。見よ、沸き上がる風が北からやってきた[1]」。ここで言われている事物の数を注意深く考察してください。「沸き上がる風」  あるいは「吹きさらう風が来たからやってきた[2]」が、先ず一つあります。「そして大きな雲がその中にあった」。二つ目です。「そしてその周囲に輝きがあった」。ご覧ください三つ目です。「そして火が光り輝いていた」とあります。これで四つ目です。「そしてその中には、火の中にある琥珀金の幻のようなものがあった」。五つ目です。「そしてその中には光があった」。六つ目です。これらに次いで、「四つの生き物の姿」と「それらの幻」、そして「幻」の叙述があります[3]。七つ目です。「そしてこれらの生き物の間には、火の炭火のようなものがあった[4]」。八つ目であります。だれがこれらを詳細に説明できるでしょうか。だれが、これらの神秘を解明できるほどの神の霊を有しているでしょうか。創造主・預言者たちの神を非難する者たちは、先ず、預言者によって言われていることを理解すべきです。そしてその後で、非難の声を上げるべきです。なぜなら、本当の意味で非難する者は、自分の知っていることを非難しなければならないからです。ところが異端者たちが、神的な理解にほど遠いとすれば、どうして彼らは、自分たちの知らないことを理性的に非難する[5]ことができるでしょうか。私たちは、彼らが非難の対象に無知であることを立証します。彼らは、この「幻」の中に、どのような意味があるかを知るべきです。先ず、「吹きさらう風」が現れました。次に、「吹きさらう風の中の大きな雲」。第三に、「逆巻く風の周囲の輝き」。第四に、「光り輝く火」。第五に、「その中にある琥珀金の幻のようなもの」。これは疑いもなく、「火の中に」ありました。第六に、同じ「琥珀金の中にあった輝き」。これらが現れました。私は、知恵と信仰のあるある人物によって言われた格言を喜んで告白し、しばしばそれを取り上げました。すなわち、神について真実を語ることは危険である[6]、と。神について語られた誤謬だけが危険なのではありません。真実を言いながらも、時機外れの提示をしたために、それが語り手に危険を生み出すこともあるのです。真の「真珠」があります。もしもそれが「豚に投げられ」たらどうなるでしょう。「豚がそれを足で踏みつける[7]」危険があるのではないでしょうか。しかし私たちに身近なところから、具体例を挙げておきましょう。このようなもろもろの集会は[8]、アエリア[9]においても、ローマにおいても、アレクサンドリアにおいても、また全世界のどこにあっても、あらゆる種類の「魚を集める網[10]」に似ています。この網の中に入るものがすべて、ことごとく善いものであることはできません。実際、救い主はこう言っております。「人々は網を引き上げ、岸に座り、善いものをは選んで器に入れ、悪いものは外に投げ出すだろう[11]」と。ですから、全教会の網には、善いものと悪いものとがあるのが必然なのであります[12]。もしもすべての教会がことごとく清いものであるとすれば、私たちは神の裁きのために何を残したらよいでしょうか。別のたとえ話によりますと、「麦」と「もみ殻」とが、「麦打ち場」に置かれています。「麦」だけがキリストの「倉に集められ」、「もみ殻」はキリストによって分離されなければなりません。「その方は、手に箕を持ち、自分の麦打ち場を清め、麦を倉に集めますが、もみ殻を消えない火で焼き尽くす[13]」のです。もちろん私は、いま、全世界が「麦打ち場」だと言っているのではありません。私は、キリストの民の群[14]を「麦打ち場」だと理解しているのです[15]。一つひとつの麦打ち場が、それぞれに仕切られ、麦やもみ殻で一杯であり、しかもそのすべてが麦でなく、そのすべてがもみ殻でもないのと同じように、地上の諸教会においても、ある人は麦であり、ある人はもみ殻なのです。前者の場合、もみ殻は、自分が原因であるいは自分の意思で、もみ殻になっているのではなく、また麦は、自分の自由意思で麦になっているのではありません。ところが後者の場合には、あなたがもみ殻であるか麦であるかは、あなた次第なのであります[16]。これは、次のことを私たちに教えています。ある人が私たちのかずかずの集会の中に罪人を見出しても、顰蹙を覚えたり、「見よ、聖なる人たちの集会に罪人がいる」などと言ってはならないということです。これが当然あり得ることであり、事実容認されていることであるとすれば、どうしてこの私も、罪を犯さないでいられましょう[17]。私たちがこの代にいるかぎり、すなわち「麦打ち場」と「網」の中にいるかぎり、「善いもの」と「悪いもの」がその中には含まれているのです。しかしキリストが来られるとき、選別が行われ、使徒によって言われたことが成就します。「私たちは皆、キリストの裁きの座の前に出頭しなければなりません。そして、各々、自分の身体で行った善いことや悪いことを、報告しなければなりません[18]」。以上は、「もろもろの幻」に関して、動揺する(私の)魂が、話の手始めとして語ったものであります。私の魂は、何を沈黙し、何を表明し、何に軽く触れればよいか、またこれらのうち何を明瞭に説明し、何を曖昧に表明すべきかで揺れ動いておるのです。もちろん私たちは、私たちの望んでいることを果たすことはできますが・・・。



[1] Ez.1,4.

[2] Cf.Ez.1,4.

[3] Ez.1,5.

[4] Ez.1,13.

[5] 省略

[6] 省略

[7] Cf.Mt.7,6.

[8] 省略

[9] 省略

[10] Cf.Mt.13,47.

[11] Mt.13,48.

[12] 省略

[13] Lc.3,17.

[14] 省略

[15] Cf.Hom.Jdt.8,5.

[16] 省略

[17] 省略

[18] 2 Co.5,10.

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