16 「霊の進むところならどこへでも、生き物たちは行った[1]」。これらの「生き物たちは、それぞれ人間の姿[2]」をしていると同時に、「四つの顔[3]」を持っています。しかし最初に、「四つの顔」があるとは言われておりません。「四つの顔」の中で、「人間の顔」が際立ち、首位を保っていると叙述されております。しかもその顔は、「人間の顔(のよう)であり、四つとも右に獅子の顔、四つとも左に牛の顔、四つとも(後ろに)鷲の顔[4](を持っているかのようで)あったと言われています。そこで私たちは、このことが、他の人たちの諸見解によって検討された三部構成の魂[5]を意味し、さらにこの三部構成の魂の上に第四の能力[6]が臨んでいるのではないのかどうかを考察してみることにしましょう。この魂の三分割とは何でしょうか。「人間」によって魂の理性的能力[7]が示され、「獅子」によって激情的能力[8]が、「鷲」によって情意的能力[9]が示されているのです[10]。他方、助けるために臨む「霊」は、「人間」や「獅子」のように「右」にあるのでもなければ、「牛」のように「左」にあるのでもありません。それは、三つの「顔」すべての上に臨んでいるのです。たしか別の箇所では、魂に臨む霊を示すために、「鷲」の名が挙げられています。ただし私は、(霊と言っても)人間の中にある人間の霊を言っております。こうして、「天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものも[11]」、そしてもろもろの天の上にあるものも、すべてのものが、神のご意思によって導かれ、私たちは皆、神の足下にいる「ケルビム[12]」になるのです[13]。ところでこれらの「ケルビム」には、世の「車輪[14]」が付けられ、それらの後に従っております。私たちはいまや、キリストのご受難によってこの世の労苦から解放されているので、私たちはもう、「車輪」の下にいなければ、この代の支配と雑事の下にも暮らしてはいなのです。

 「そして車輪の中に車輪があった[15]」。もしもあなたが、誤謬に陥っていると思われるものであれ、誤謬は無縁であると言われるものであれ、それらの内にあるありとあらゆる物事が、どのようにして反対対立する出来事によって進展する[16]のかをお考えになれば、どうして「車輪の中に車輪があった」のかがおわかりいただけるでしょう。とにかく神は、イエズス・キリストにおいて、これらすべてのものを導かれ、ご自分のお望みになるところに宇宙万物を進展させるのです[17]。「栄光と支配が、代々かぎりなく、キリスト・イエズスにありますように。アーメン[18]」。



[1] Cf.Ez.1,12.

[2] Cf.Ez.1,5.

[3] Ez.1,6.

[4] Ez.1,10.

[5] 省略

[6] 省略

[7] 省略

[8]省略

[9] 省略

[10] 省略

[11] Cf.Ph.2,10.

[12] Cf.Ez.10,9.

[13] 省略

[14] Ez.1,15.

[15] Cf.Ez.1,16.

[16] 省略

[17] 省略

[18] Cf.1 P.4,11.

 

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