さて、神によって(ネブカドネザルに)引き渡された罪人たちは、もはや(神によって)導かれない、そしてひとたび捕囚のき目にあったからには神の配慮と憐れみに値しないなどと、だれも考えないようにするために、目下の箇所をいっそう注意深く考察してみることにいたしましょう。ダニエルは罪を犯しませんでした[1]。アナニア、アザリア、ミサエルは、罪をれていました。しかし彼らは、捕らえられてしまいました。それは、彼らがバビロニアの地に身を置くことによって、捕らえられた民を慰め、自ら声を上げて激励し、悔い改めた人たちを暫時矯正し、彼らをエルサレムに回復させるためなのです[2]。実際、彼らは、七十年の隷属の間にさまざまな責め苦に遭いましたが、やがて自分たちの故郷に戻っていきました。預言者たちの聖なる言葉が、打ちのめされた(罪人たちの)魂を立ち直らせたのです。しかし(今私が挙げた)四人だけが、捕囚にあった預言者なのではありません。エゼキエルもそのうちの一人でした。また、「ベレクヤの息子であるゼカリヤも、ダレイオスの治世下に[3]」捕囚の渦中にありました。さらに私たちは、ハガイやその他たくさんの預言者たちが、この(捕囚の)時代に預言したことを見出すでしょう。以上のことによって、神が罪人たちを罰するだけでなく、さらにかずかずの責め苦に憐れみを織り合わせていることが示されます。しかしもしもあなたが疑うようであれば、責め苦に悩む者たちの声を聞いてください。彼らは、さまざまな苦しみのうちにありながらも、実にくすしき仕方で、神の慈しみを表明しているのです[4]。「あなたは、涙のパンをわれらに食べさせ、涙の水をほどよく飲ませまるのですか[5]」と。何の区別もなくただ漠然と「涙の水を」といっているのではありません。「涙の水をほどよく」といっているのです。つまり神の憐れみが考慮に入れられているのです[6]。罪を犯した者たちに責め苦を加えることが、罪人の回心に役立たなければ、神は憐れみ深く慈しみ深い方ですから[7]、罪を罰して苦しめることは決してないでありましょう。もっとも寛大な父親が教育のために息子を矯正するように、また、もっとも賢明な教師が厳しい強面で、浮かれきった教え子を叱り、教え子が(どんなことをしても教師から)愛されていると考えて駄目にならないようにしているのと同じように、神は罪を罰するのです。だれよりも賢いソロモンが、神による矯正についてどう見ているかお考えください。「(我が)子よ、神の訓練にづくな。神に矯正されても落胆するな。主は、ご自分の愛するものを懲らしめ、(子として)受け入れるすべての者を鞭打つのだ[8]」(と、ソロモンは言っています)。また、罪を犯したのに父親に鞭打たれない子どもはいないと、使徒はいっております。そして使徒はこれに見事な言葉を添えて、こういっています。「あなたがたは、訓練に耐えなさい。神は、あなたがたをご自分の子として扱っているのです。父親が矯正しない子は、一体どんな子なのでしょうか。しかしもしもあなたがたが、すべての人たちが受けている訓練の外にいるとすれば、あなたがたは、私生児であって、実の子どもではないのです[9]」。

しかし他ならぬ怒りという言葉に立腹して、神の怒りを厳しく責め立てる人がいるかもしれません。そのような人に対しては、私たちは、神の怒りは怒りというよりは、むしろ必要な配慮なのだ[10]と回答することにいたしましょう。神の怒りの業[11]がどのようなものであるか、お聞きください。神は、責め、懲らしめ、矯正するのです。「主よ、あなたの怒りが私を責めないようにしてください。あなたの憤りで私を懲らしめないでください[12]」。これらの言葉を語る人は、神の怒りが健康に無益ではなく、病気の人たちをやすために、神のみ言葉を聴くことをむんだ者たちを矯正するために、この怒りが向けられるのだということを知っているのです。そこで彼は、そのような治療法で矯正しないように、懲罰的な治癒法でもとの健康を回復させないように、神に懇願しているのです。それはちょうど、鞭打ちの刑に処せられた奴隷が、主人に哀願して、今度自分に課せられた命令は必ず果たすからと請け合って、こう言っているようなものであります。「主よ、あなたの怒りで私を懲らしめないでください[13]」と。神に由来するものは、すべて善いものであり[14]、私たちは矯正を受けて然るべきなのであります。「私は、彼らのきを耳にして、彼らを責める[15]」という言葉に耳を傾けてください。ですから、私たちが苦難に関する事柄を聴いたのは、私たちが矯正されるようにするためだったのです。また『レビ記』にあるいには、次のように書かれています。「彼らがそれでも従わず、私に立ち返らないなら、私は彼らの罪に対して七つのいをくだす。しかしそれでも彼らが立ち返らないなら、私は彼らを懲らしめる[16]」。神に由来するもので過酷に見えるものはみな、教育と治療のために有益なのです[17]。神は医者、神は父親であり、主は残酷ではなく、主は柔和なのです[18]。もしもあなたが、聖書の言葉に従って罰せられる人々を見出したなら、使徒もあなたに教えているように、「聖書(のこの記事)を(他の)聖書(の箇所)と比較して」ください[19]。もっとも過酷であると思われるところにもっとも甘美なものがあるのに、お気づきになると思います。預言者(の書)のなかには、こう書かれています。「私は同じことを二度、裁いたりしない[20]」。神は、洪水によってただ一度だけ裁いたのであり[21]、ソドムとゴモラをただ一度だけ裁いたのです[22]。神はただ一度だけ、エジプトと六十万のイスラエル人を裁いたのです[23]。とはいえ、あなたは、この懲罰がただ罪人たちに対してだけ、この責め苦の後に死後再びかずかずの責め苦を受けなければならないというふうに、課せられているのだとお考えにならないようにしてください[24]。彼らが現世に罰せられるのは、るべき世に置いて永久に罰せられないためなのです。福音にある、あの、汚れと窮乏とによって打ちひしがれた貧者(ラザロ)を思い起こしてください。彼は、「後に、アブラハムの懐で安らいだ」のです[25]。彼は、(死後も)自分の生命を獲て、「自分のもろもろの災いの報いを受けたのです[26]」。しかしあなたは一体どこから、洪水によって滅ぼされた人たちが、生命を獲て、自分たちの災いの報いを受けたのだということを、知ったのですか(と言う人もいるかもしれません)。また、ソドムとゴモラは、死後もその生命を保ち、それぞれの災いの報いを受けたのだと、一体どこからあなたは知ったのですかと。聖書の証言をお聞きください。あなたは、旧約の証言をお知りになりたいですか。それとも新約の証言から学びたいですか。「ソドムは、昔の状態に回復されるであろう[27]」とあります。それでもあなたは、ソドムの人々を罰した主が慈しみ深い方であることを疑うのですか[28]。「裁きの日には、ソドムとゴモラの地の方が寛大に扱われるであろう[29]」と、主は、ソドムの人々を憐れみながら言っております[30]。ですから、神は恵み深く、神は慈しみ深いのです[31]。まことに神は、「善人の上にも悪人の上にもご自分の太陽を上らせ、また」、まことに神は、「正しい人ににも正しくない人にも雨を降らせてくださるのです[32]。私たちが肉眼で観るこの太陽だけではありません。神は、精神の目によって観られる太陽をも上らせてくださるのであります。私は、悪人でした。しかし私にも、「正義の太陽[33]」が昇ったのです。私は悪人でありました。しかしこんな私にも、正義の雨が降ったのであります。神の慈しみは、過酷であると思われる事柄のなかにも存在するのです[34]



[1] Cf.Dn.1,6.19.

[2] Cf.eg.Dn.9,2.

[3] Cf.Za.1,1.

[4] 省略

[5] Ps.79,6.

[6] 省略

[7] 省略

[8] He.12,5,6;Pr.3,11,12.

[9] He.12,7,8.

[10] 省略

[11] 省略

[12] Ps.6,1.

[13] Ps.6,1.

[14] 省略

[15] Os.7,12.

[16] Lv.26,18,23,27.

[17] Cf.De Princ.II, 10,6;Hom.Jr.12,5;Hom.Lv.8,1.

[18] 省略

[19] Cf.1 Co.2,13;オリゲネスの典型的な聖書解釈法である。

[20] Na.1,9.

[21] Cf.Gn.7,10sq.

[22] Cf.Gn.19,24qs.

[23] Cf.Ex.12,37.

[24] 省略

[25] Cf.Lc.16,22.

[26] Cf.Lc.16,25.

[27] Ez.16,55.

[28] 省略

[29] Mt.10,15.

[30] 省略

[31] 省略

[32] Mt.5,45.

[33] Cf.Ml.4,2.

[34] 省略

 

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