こうして預言者(エゼキエル)が、「捕囚にった[1]」のです。そして、彼が捕囚の痛み[2]を感じないようにするため、どのようなものを見たのか、お考えください。彼は、下界に幾多の苦しみを見ました。上方に目をやると、天が開かれるのが見え、天にあるさまざまなものが自分に示されるのを目にしました。彼は、神の栄光の似姿を見ました[3]。彼は、長い説明を要し解釈もし難い四つの生き物を見ました[4]。すなわち彼は、四つの生き物の御者を目にし、互いに調和のとれた動きをする(四つの)車輪を見ました[5]。四つの生き物の御者は、その全体がすっかり火に包まれていたわけではありません。その足下から腰までが火に包まれ、そこから(頭)のてっぺんまでは、琥珀金の輝きを放っていたのです[6]。このように神は責め苦をもたらすだけなのではございません。神は、さまざまな安らぎも用意してくださるのです[7]。神は、罪人たちを罰しますが、下(半身)にあるものを使って罰する(だけな)のです[8]。実際、預言者(エゼキエル)は、(御者の)頭部に火を見出しませんでしたし、足の付け根から頭部までの部分にも火を見出さなかったのであります。主は、火に包まれていますが、それは腰から足先までなのです。それは、生殖の営みを続ける者たちには、火が必要であることを示すためであります[9]。たしかに腰は、生殖[10]を意味しております。また、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたとき、レビはまだ太祖アブラハムの腰のなかにいたのです[11]。さらに、『詩編』には、「私は、あなたの腰のりを、私の座につかせる[12]」と言われています。主は、腰から下までが火に包まれているのです。実際、生殖と欲望との業は、黄泉の責め苦によってらしめられなければなりません。神は、火です。しかしその全体が火に包まれているのではありません。その上部は、琥珀なのです。しかもその琥珀は、銀よりも高価なばかりでなく、金よりも高価なものです。しかし聖書は、一例として琥珀を挙げたのであって、神が本当に琥珀なのではありません。神が、(エゼキエルの)見た琥珀とは違うように、神は、腰から足下にかけて見えた火とも違うのです。(ところで)その火は、(なにかを)焼き尽くします。しかしそれがなにを焼き尽くすかは、示されていません。それは、あなたが自ら探求して、神の火によって焼き尽くされるものが何であるかを見出すためなのです。「私たちの神は、焼き尽くす火であります[13]」。ではこの火は、なにを焼き尽くすのでしょうか。私たち目にしている木ではありません。感覚によって捕らえられる干し草でもございません。目に見えるでもありません。私たちが、もしもイエズス・キリストの土台の上に木という罪の業や干し草という罪の業、あるいは取るに足らない藁という罪の業を建てたなら、火が訪れて、それらのすべてを吟味するのです[14]。律法が予言し、福音が語って黙することのなかったこの火は何でありましょうか。「その火は、一人ひとりの業がどのようなものであるかを吟味する[15]」とあります。ああ、使徒よ、私たちの業を吟味するその火とは、一体なんなのでしょう。私の黄金を護り、私の銀をいっそう輝かしく示し、私のなかにある宝石をを無傷に残し、私が行った悪行だけを、私が建て上げた木や干し草や藁だけを焼き尽くす力のあるこの優れた火は何でありましょう[16]。この火は、いったい何なのでありましょうか。「私は地上に火を置くために来た。火が燃えていたらと、どんなに望んでいることだろう[17]」。イエズス・キリストは言います。「火がすでに燃えていたらと、どんなに望んでいることだろう」と。イエズス・キリストは、慈しみ深い方であり[18]、この火が灯されれば、悪意が焼き尽くされることをご存じなのです。預言者(の書)にはこう書かれています。「彼は、燃え盛る火で彼を聖なる者とし、森を干し草のように焼き払った[19]」。また、「万軍の主は、あなたの誉れのために恥辱を送り、あなたの栄光のために、燃え盛る火が灯された[20]」。すなわち、あなたに誉れが与えられるように、あなたのもろもろの罪の業に火が送られたのであります。さらにあなたは、神の慈しみに由来するさまざまの責め苦が[21]、それらを忍ぶ人々の利益のために定められたものであることを預言者からお学びになりたいのですか。では、同じ預言者が語っていることに耳を傾けてください。「あなたは燃え盛る炭火をお持ちです。あなたが彼らの上に座せば、彼らはあなたの助けとなるでしょう[22]」。(しかし)これらのことは、隠されなければならず、公にしてはならないものでした。ところが異端者たちは、これらの隠されるべきものを公にするように私たちに強要しているのであります。なぜなら覆いは、魂の年齢においてまだ子どもである人々にとっては[23]、有益なものだからです。彼らは、教師たちへの恐れを必要としており、威嚇と恐れによって矯正されなければならないのです。このようにすれば、彼らは、善性を獲得することができ[24]、辛い治療によっていつの日かもろもろの罪の傷から脱することができるのです。実際、神のもろもろの神秘[25]は、子どもたちである聴衆のために何らかの覆いによって、常に隠されるのです。「主よ、あなたの優しさは、何と大きいことでしょう。あなたは、あなたを畏れる者たちのためにその優しさをお隠しになりました[26]」。律法と預言者たちの神は、ご自分の慈しみの偉大さ[27]を、ご自分を愛する者たちのためではなく、ご自分を畏れる者たちのためにお隠しになったのです。実際、子どもたちは、自分が父親から愛されていることを知って、それから利益を引き出すことはできないのです。(愛されていることを知ったなら)彼らは、駄目になってしまうか、神の慈しみを蔑ろにすることでしょう[28]

それゆえ、(イスラエルの)民の捕囚についての話を聞いたなら、あなたは、それが文字通り歴史的に、本当に起こったことであると同時に、別の事柄をあらかじめ示すしるしであり、後続して起こる何らかの神秘を示しているのだとお考えください。と申しますのも、(キリスト)信者と呼ばれ、平和を見つめるあなたも  「実際キリストは、私たちの平和です[29]」が  エルサレムに住んでいるからです。しかし、もしもあなたが罪を犯すなら、神の経綸[30]はあなたを見捨て、あなたは捕囚となって、ネブカドネザルに渡され、バビロニアに連れて行かれるでありましょう[31]。たしかに、あなたの魂が、もろもろの悪徳やもろもろの情念によってかき乱されたときには、あなたは、バビロニアに連れて行かれるのです[32]。なぜならバビロニアは、「混乱」と解釈されるからです。他方もしもあなたが悔い改め、真心からの回心によって神の憐れみを手にする[33]なら、エズラが遣わされて、あなたを連れ戻し、エルサレムを建設させることでしょう[34]。実際、エズラは助け手と解釈され、あなたをあなたの祖国に戻すために、助けとなるみ言葉があなたに遣わされるのです。ダニエルが謎めいて語り、使徒が隠したり明らかにしたりしながら語ったことは、まさに神秘なのであります[35]。「私たちはみな、アダムにおいて死に、キリストにおいて生命ある者とされるのです[36]」。事実、アダムは楽園にいましたが、蛇が、彼の捕囚の原因となり、彼がエルサレムや楽園から追放され[37]、この「涙の場所[38]」に来るように仕向けたのです。蛇は、真理に逆らう敵であります。しかし蛇は、元から敵対者として創造されたわけではありませんし、直ちに胸と腹で這い回るようになったのでもありません。また、元から呪われていたのでもありません。アダムとエバが、創造されるや否やすぐに罪を犯すことのなかったのと同じように、蛇にも、「歓喜の楽園[39]」に暮らしていたときには、蛇でないときがあったのです。それゆえ、蛇は後になって、(自分の)罪のゆえに堕落し、次の言葉を聞く羽目になってしまったのであります。「おまえは神の楽園のなかで、(神の)似姿の印章として、美しさの極みとして生まれ、不正がおまえのなかに見出されるまで、おまえの歩むすべての道において、おまえは汚れを知らなかった[40]」。この件に関してなら、ヨブも、(悪魔が)全能の神のみ前で、驕り高ぶったことに言及しております[41]。たしかに「暁に昇る明けの明星は、天から落ちて、地の上で砕かれました[42]」。預言の言葉と福音の言葉の一致にご注目ください。イエズスは、こう言われています。「私は、サタンが天から稲妻のように落ちるのを見た[43]」。稲妻が天から落ちると言うのと、明けの明星が天から落ちると言うのとでは、どこが違うのでしょう。このことに関して重要なのは、落ちるということに関して、完全な一致があるということです。「神は、死を創造なさいませんでした」し、悪事を働くこともありません[44]。神は、万事につけて、人間と天使とに、自由意志をお与えになられたのであります[45]。ここで、一体どのようにしてある者たちは善の極みにまで昇りつめ、またある者たちは邪悪さの極にまで陥ったのかを理解しなければなりません。それとも、ああ、人間であるあなたよ、なぜあなたは、あなたがあなた自身の自由意志によって捨てられたのだとお考えにならないのですか。なぜあなたは、努力し、苦労し、競い合い、また善き業に励みながら、あなた自身が救いの原因となること[46]を厭がるのですか。それとも神は、あなたが惰眠を貪り、子々孫々末代に至るまで永遠の無為に安らうことをお喜びになるでしょうか。主イエズス・キリストは、「私の父は今に至るまで働いておられる。そして私も働く[47]」と言っております。あなたは働くために生まれたのですから、神は、あなたが何らかの業を行うのを見て不快に思うでありましょうか[48]。あなたは、正義や知恵や貞潔が、あなたの業にもなるということをお考えにならないのですか。あなたは、剛毅やその他の徳が、あなたの業にになるのだと、お考えにならないのですか。ですから、彼らは、自分自身の罪によって隷属の責め苦に値するものとされ、捕囚となって連れ去られたのであります。そして、イエズス・キリストが、「捕らわれ人には解放を、目の不自由な人には視力(の回復)を告げるために[49]」おいでになりました[50]。このおん方は、「捕らわれた人々に、あなたがたは出てきなさい」と叫び、「暗闇のうちに暮らす人々に、あなたがたは見なさい[51]」と叫びます。私たちも、罪の束縛のうちにありました。私たちは、「かつて、暗闇のなかに暮らしながら[52]」、この世の闇の支配者たちに逆らっておりました。そして、すべての預言者たちによって預言されたイエズスがおいでになり、捕らわれた人々に、「あなたがたは出てきなさい」と言い、暗闇のなかに置かれた者たちに、「あなたがたは見なさい」と言われたのであります。



[1] Cf.Ez.1,1.

[2] 省略

[3] Cf.Ez.2,1;1,5.

[4] 省略

[5] Ez.1,5.

[6] Ez.1,27.

[7] 省略

[8] 省略

[9] 省略

[10] 省略

[11] Cf.He.7,10.

[12] Ps.131,11.

[13] He.12,29.

[14] Cf.1 Co.3,12.13.

[15] 1 Co.3,13.

[16] 省略

[17] Lc.12,49.

[18] 省略

[19] Is.10,17.

[20] Is.10,16.

[21] 省略

[22] Is.47,14,15.

[23] Cf.eg.1 Co.3,1.

[24] 省略

[25] 省略

[26] Ps.30,20.

[27] multitudo bonitatis suae

[28] 省略

[29] Cf.Ep.2,14.

[30] 省略

[31] Cf.Hom.Jr.I,3.

[32] Cf.Hom.Jos.15,3.

[33] 省略

[34] Cf.2 Esd.1,1.

[35] 省略

[36] Cf.1 Co.15,22.

[37] Cf.Gn.3,1sq.

[38] lCf.Jdt.2,5.

[39] Cf.Gn.2,8.

[40] Ez.28,12.13.15.

[41] Cf.Jb.1,6sq.

[42] Is.14,12.

[43] Lc.10,18.

[44] Cf.Sg.1,13 et cf.Hom.Nb.14,2.

[45] 省略

[46] 省略

[47] Jn.5,17.

[48] 省略

[49] Cf.Lc.4,19.

[50] Lc.4,18.

[51] Cf.Is.49,9;Lc.8,29;1,79;Mt.9,30.

[52] Cf.Ep.6,12.

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