4 ところで、もしもあながた、「人の子として捕囚に遭いながら[1]」、(神の言葉を)宣べ伝えるエゼキエルの話を聞こうと望む場合、彼もまた、キリストの予型であった(ことにご注意ください)。エゼキエルはこう言っております。「三十歳の第四の月の第五の日に、次のようなことが起こった。私は、ケバル川のほとりに住み、捕囚のただなかにあった。そのとき、もろもろの天が開けた[2]」。エゼキエルは、三十歳の時、ケバル川のほとりにいて、もろもろの天の開けるのを見ました。主イエズス・キリストも、およそ三十歳の時に、ヨルダン川のほとりで(宣教を)始められ[3]、そのとき「もろもろの天が開かれました[4]」。またエゼキエルは、その預言活動の全体を通じて、「人の子[5]」と言われていました。しかし、私の主・イエズス・キリストの他に、だれが「人の子」なのでありましょうか[6]。キリストのご降誕を仮象として見くびる異端者たちは、私に答えるがよろしい。なぜキリストは、「人の子」と呼ばれたのですか? 私は、彼が「人の子」であったと断言します。実際、人間の諸情念を引き受けられた方は、そのご受難の前に、(人間としての)誕生を受け容れる必要があったのです。もしもキリストさまが人間性の始まりを受け入れなかったとすれば、彼は、人間的な感情も、言葉も、習慣も、十字架も、死も受け容れることはできなかったでありましょう。イエズスのご誕生を否定する者たちは、さらにそのおん方の受難を否定し、イエズスは十字架にかけられなかったのだと、あっさり言ってしまうのが必定なのであります[7]。しかし、あなたは十字架を告白しております。今やあなたは、十字架につけられた方、「しかもユダヤ人にとっては躓きであり、異邦人にとっては愚かなことを宣べ伝え[8]」、恥じ入ることはありません。それなのに、あなたは、十字架や死に比べればさほどの躓きではないイエズスのお誕生を告白するのに恥ずかしい思いをするのですか。たしかにイエズスのお誕生は、そのご死去に比べれば、大きな躓きではないのです。あるいは、キリスト教の信仰というものが、躓きを畏れるものではないとすれば、あなたはなぜ、より大きなものを大胆に告白する一方で、より小さなものを語るのに恐れを感じるのですか  特に(より小さなものを語るとは)特に、彼の誕生が、「男の種と、男と共に眠りに就いた女とに由来する[9]」のではなく、次のようにいう預言者の言葉に従って行われたのだと信じられる場合であります。預言者は、こう言っております。「見よ、乙女が、そのご胎に身ごもって、子どもを産む。その子の名は、インマヌエルと呼ばれだろう[10]」と。この、インマヌエルと言われる言葉は、(意味のない)空疎な名称なのではありません。それは、ある事柄を意味しています。すなわち、イエズスが来られたとき、私たちは、「神は私たちと共に[11]」と言うのです。ですからエレミアが、三十歳で預言をしたことは、理由のないことではございません。それに彼の名前さえ、キリストの予型となっているのであります。なぜならエゼキエルとは、「神の支配」と解釈されるからです。ところで、キリスト・イエズスを他にして、神の支配はありえないでしょう。またエゼキエルは、「ブジの子[12]」とも書き記されております。ブジとは、「蔑まされた者」と解釈されます。もしもあなたが異端者たちの許に行き、彼らが造り主を蔑んで無きに等しいものにし、なおその上に中傷を加えているのを耳にしたら、あなたは、彼らの言うところに従って、私たちの主イエズス・キリストがこの上もなく蔑まされた創造主の息子であることを知るでありましょう。しかしもしも抵抗し、私たちの説明したことを、預言者ともども受け入れようとしない人がいえれば、私はその人に尋ねたい。なぜエゼキエルの生涯の第三十年に、「もろもろの天が開かれ」、しかも彼が、自分の書に含まれている「幻を見たと[13]」、書かれているのかと。実際、三十という言葉を聞いて、救い主と預言者の三十年に、もろもろの天が開かれたということを学ぶのでなければ、また、「霊的なものを霊的なものと比べることによって[14]」、(聖書に)書き記されたすべてのことが同じ神の言葉であることを知るようになるのでなければ、三十という数は私にとって何の役に立つのでしょうか。「賢者らの言葉は針のよう。深く打ち込まれた釘のよう。なぜならそれらの言葉は、唯一の牧者によって、差し傷を受ける人たちに与えられるからだ[15]」とあります。私は、また、「第四の月の第五の日に[16]」という言葉でいわれていることも、私の理解力のかぎりを尽くして探求し、聖書のその言葉の意図[17]に合った理解が得られるように神に願いたいと思います。もう、新しい年がユダヤ人たちに迫っています。彼らの間では、第一の月は、新年の開始とともに計算されます。ところで、新年(月の)計算は、過越祭のときに行われます[18]。実際、「この月が、おまえたちにとって、一年の月の最初の月にならなければならない[19]」とあります。あなたは、この年から第四の月をご計算ください。そうすればイエズスが洗礼を受けたのはこの新しい年の第四の月であることがわかると思います。私たちは、ローマ人たちの間で「ヤーヌスの月[20]」と呼ばれている月に、主が洗礼をお受けになられたことを知っています。そしてこの月は、ヘブライ人たちの計算によれば新しい年の第四の月なのです。そして、(救い主が)この世界を構成する四つの元素からなる(ご自分の)身体をお取りになり、さらに人間の(五つの)感覚を受け取ったという事実から、(イエズスの予型である)エゼキエルは、第四の月の第五の日に幻を見たのではないでしょうか。



[1] Cf.Ez.2,1.

[2] Ez.1,1.

[3] Lc.3,23.

[4] Lc.3,21.

[5] Cf.Ez.2,1.3.6.8sq.

[6] Cf.Hom.Ps.4,2(XI 429 Lomm.); Sel.Ez.I 1(XIV 179 Lomm.).

[7] 省略

[8] Cf.1 Co.1,23.

[9] Cf.Sg.7,2.

[10] Is.7,14.

[11] Cf.Mt.1,23.

[12] Cf.Ez.1,2.

[13] Cf.Ez.1,1.

[14] Cf.1 Co.2,13. オリゲネスの聖書解釈法の原理である。

[15] Qo.12,11.

[16] Ez.1,1.

[17] 省略

[18] 省略

[19] Ex.12,2.

[20] Januarius英語のJanuaryである。

 

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