「そして私までも、捕囚のただなかにあった[1]」とあります。「そして私までも、捕囚のただなかにあった」という言葉は、私には皮肉を込めて言われているように思われます。「そして私までも」と言うことは、まるで次のことを言っているかのようです。歴史的な意味ではたしかに預言者であり、しかも民の罪に捕らわれはいなかったこの私までも、捕囚のただなかにあった。しかし比喩的な意味ではキリストであるこの私までも、捕囚の地に、奴隷たちがおり、囚われ人たちが抑留されている辺境にきてしまった、と。あなたは、預言者たちの(書の)なかに、私たちの救い主が仰せられたこの種の発言を見出すことができるはずです。このときの救い主は、私たち人間が、とりわけ救い主を信じていると思われている私たちが、主の経綸にふさわしいこと[2]を行わないので、憤りを覚えていらっしゃるのです。実際、主は、ご自分のおん父にこう言っております。「私の地に、私が滅びに下ることに何の益があろうか。一体、塵があなたをたたえ、あなたの真を宣べ伝えるであろうか[3]」。私は、私たちの救い主おん自らが、(善き魂を求める)預言者たちを通してお語りになったこれと同じようなお言葉を見出します。彼らは、義に満たされ、神的な感覚に満ち、また聖なる実りに満たされた魂を求め、「真のぶどうの房[4]」を探していましたが、非常に多くの罪人と善き業に欠けた人々とを見出したので、次のように言っているのであります。「ああ、悲しいかな。私は、刈り入れの後に落ち穂を拾う者のようになった。もはや食べるべき初なりのブドウもないブドウ畑の収穫人のようになった[5]」と。「ああ、悲しいかな」。この「ああ、悲しいかな」という言葉は、「すべての被造物に先立って生まれた方[6]」が言っているのではありません。それは神性の声ではありません。そのお方がお取りになった人間の魂がいっている言葉であります[7]。そのおん方はさらに続けてこう言っております。「ああ、悲しいかな。私の魂は その土地から連れ戻す者がいなくなり、諭す者が人々のなかにいなくなったから。人はみな、血によって裁きを受け、それぞれ自分の隣人を悩ませている[8]」と。私は、預言者(エゼキエル)が「そして私までも、捕囚のただなかにあり、ケバル川のほとりに住んだ[9]」と言ったので、以上のことが思い出されました。

この「ケバル」という言葉は、「重い煩わしさ[10]」と解釈されます。そしてこの代の川も、他の箇所でも神秘的に言われておりますように[11]、重く煩わしいものなのです。(エゼキエルは)単純な人たちに対しては、歴史(的な事柄)を語りますが、聖書を霊的に理解する人々に対しては、霊魂について、それがこの人生の激流に落ちたものであることを示しています。「われらは、バビロンの川のほとりに座り、シオンを思い出して泣いた。われらは、バビロンのただなかにある柳の木にわれらの楽器を掛けた。われらを虜にして来た者たちは、その場所で、(楽しい)歌を歌えとわれらに求めた[12]」。もろもろの霊魂が天の祖国を思い出し、嘆き悲しみながらそのほとりに座っているところのバビロンの川とは、そのようなものです。そしてそれらの霊魂は、各自の楽器を律法と神の神秘という柳に立てかけているのです[13](聖書の)ある箇所には、「信じる者はみな、柳の木の冠を得る」と書かれています。また『イザヤ書』では、「彼は、水のただなかにある草のように生え、水の流れのほとりの柳のように育つ[14]」と言われております。神の幕屋が組み立てられる荘厳な祭日には[15]、幕屋の設置に合わせて柳の枝を植えることになっています。



[1] Ez.1,1.

[2] 省略

[3] Ps.29,10.

[4] Cf.Jn.15,1.

[5] Mi.7,1.

[6] Cf.Col.1,15.

[7] 省略

[8] Mi.7,2.

[9] Ez.1,1.

[10] 省略

[11] 省略

[12] Ps.136,1-3.

[13] 省略

[14] Is.44,4.

[15] Cf.Lv.23,40.

 

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