「そしてあなたは困惑せよ。そして自分の姉妹たちを義化したがゆえに恥辱を受けよ[1]」。もしも私が、他の罪人たちが正しいとされるほどの事を行ってしまったら、私はより大きな恥辱を受けることでしょう。その場合には、私の犯した諸々の罪に比べるなら、かつて断罪された悪人たちの罪のほうが憐れみによって赦されることでしょう。なぜなら私は、もっと悪い罪を犯したことになるからです。それで、罪深いエルサレムに対してこう言われるのです。「お前は、お前の姉妹たちを正しいとしたがゆえに恥辱を受けよ[2]」と。もしも人が、「お前は困惑せよ」と書かれていることを実際に遂行し、「お前は、自分の姉妹たちを正しいとしたがゆえに恥辱を受けよ」と命ずる神の裁きに従ったなら、その人は、困惑の後にどのようにして慈愛が回復されるのか、恵みの内に見なければなりません。なぜならその人は、神の裁きを軽蔑せず、自分について下された裁きをまったく謙虚に受け入れたからです。では、何が約束されているのでしょうか。「お前が、お前の姉妹たち、すなわちソドムとサマリアを正しいものとしたがゆえに、私は、ソドムの背きとその姉妹たちの背きのゆえに彼らの背きを正す[3]」とあります。すでに述べましたように、ソドムが妹で、サマリアが姉です。「私は彼らの背きを正す」とあります。彼らとはすなわち、(神が)その背きを正し、よりよい状態に転向させる三姉妹のことです。先ずはサマリアの人たち。次にサマリアの人たち。そして三番目にエルサレムの人たちです。しかし「私がソドムとサマリアとエルサレムの背きを正す」と神が言ったとすれば、先ずソドムが最初の状態に回復されます[4]。神は、彼女の以前の諸々の背きを正されたことでしょう。次にサマリアが最初の状態に回復されます。神は、彼女を二番目に回心させるからです。三番目にエルサレムが最初の状態に回復されます。なぜなら彼女の背きは三番目のものだったからです。ですからソドムとその娘たちの背きの内に、エルサレムの背きの内に健全な状態が罪人たちに分け与えられます。そして神により多く愛されている人たちには、より遅く健全な状態が分け与えられます。実際、エルサレムによって義とされたソドム、すなわち異邦人たちは、最初に憐れみを獲得します。サマリア、すなわち異端者たちは、二番目に健全な状態を手に入れます。さらに第三番目に、速やかな措置に値しない人たち、すなわちエルサレムに属していた人たちが、最初の状態に回復されます[5]。ですからもしも私たちは不敬虔となり、罪の数々が私たちにのしかかっているなら、私たちよりも先に異邦人たちが、そして異端者たちが慈愛を獲得することになるのです。私たちは、神のみ傍にいて、至福の近くにいればいるほど、罪を犯したときには、その至福からより遠ざかり、恐ろしくもっとも大きな罰の数々に近づくことになるのです。実に、神の裁きは正しく、「力ある者は、数々の苦しみを深く受ける[6]」のです。これに対してもっとも小さい人は、より速やかに憐れみを得ることになります。もっとも小さいのはソドムです。そしてその次にサマリアが、エルサレムと比較して小さいものとなります。ただしソドムと同じように小さいのではありません。したがって先ず最初に彼女らの背きが正されます。そしてその後にエルサレムの背きが正されることになります。こう言われています。「そして私はお前の背きを正す[7]」と。確かにこの言葉は、三番目に、エルサレムに対して言われています。ところで、もしも私がエルサレムであり、私の姉妹たちのただ中で罪人であったとすれば、いつ神は私の背きを正されるのでしょうか。それは「お前が自分の苦しみを担うために[8]」という言葉を私が聞いたときです。ですから第三番目に神は、こう言われているのです。「私はお前の背きを正す」、そしてすべての人たちの後で「お前は、自分の行ったすべてのことに関して、苦しみを担い、恥辱を受けるために[9]」と。罪には、各人が犯した罪に応じて受ける罪のある尺度が存在します。もしも私に50個の罪があれば、私は50個の恥辱をもっていることになります。もしも私に100個の罪があれば、私の行いに応じて罰は倍にされることでしょう。そして罪の多さに応じて、私に恥辱が与えられることでしょう。罪が多くなればなるほど、より多くの責め苦が加えられます。ただ神お一人だけが真の審判者であり、罪の多さと恥辱の性質、そして罪の数を見通すことがおできになります。こういうわけでエルサレムに対して、「お前が、自分の苦しみを担い、お前が行って私を苛立たせたすべてのことについて恥辱を受けるために[10]」と言われているのです。ここで神が弁明し、これらの言葉によっていわば次のことを証拠立てているのをお考えください。すなわち神ご自身が怒りを持つのではなく、罪人が神を怒りへと駆り立てるということです。それゆえ使徒もこう言っています。「それともあなたは、神の慈しみと慈愛、寛大さをないがしろにしているのですか。あなたは、神の慈しみがあなたを悔い改めに導くためのものであることを知らないのですか。あなたは、心のかたくなさと悔い改めない心のままに、怒りをあなた自身のために蓄えているのです[11]」と。この言葉は、怒りの激情を神から引き離しています。実際、怒りの激情は、神とは無縁のもので、神に本性的に結びついているものではないのです。それで罪人たちについてこう言われているのです。「あなたはあなたの怒りを送り出した。そしてその怒りが彼らを食べ尽くした[12]」。誰であれ、自分に本性的に結びついたものを送り出すことはできません。送り出されるのは、送り出すものとは異なるものです。こういう意味で私たちは、罪を犯すことによって神を怒らせ、神は、ご自身ではお持ちならない怒りを発することになるのです[13]

 

 



[1] Ez.16,52.

[2] Ez.16,52.

[3] Ez.16,53.52.

[4] Cf.Ez.16,55.

[5] 省略

[6] Cf.Sg.6,6(7).

[7] Ez.16,53.

[8] Ez.16,54.

[9] Ez.16,54.

[10] Ez.16,54.

[11] Rm.2,4-5.

[12] Cf.Ex.15,7.

[13] 省略

 

次へ