さて、さらに幾つかの個所を取り上げて、神の恵みが私たちに惜しみなく与えてくださるものをいわば道具にして、将来の解釈のための道を固めなければなりません。なぜなら私たちは、引き続く個所において、十全に説明しなければならないことを十分にわきまえているからです。では先ず、なぜネブカドネザルとファラオが鷲と言われているのか見てみなければなりません。聖書を暇つぶしに読み飛ばすことをしない人の中には、おそらくこう尋ねる人がいるかもしれません。すなわちもしもネブカドネザルが大きな翼を持った大きな鷲であるとすれば、そしてこのファラオも、同じく巨大な翼を持ったまた別の鷲であるとすれば[1]、そして律法の中で鷲が汚れた生き物の中に置かれているとすれば[2]、どうして義人は、豊かになってから、自分の王の家に戻れるようにするために、鷲のつばさを身に帯びるのかと。さらになぜ、イザヤの預言に次のように言う預言があるのか。「義人たちは、鷲のような羽を得て、走れども労せず、歩けども空腹を覚えない[3]」とある。もしも鷲が汚れたものであれば、私たちは、義人になったとき、鷲のように羽を持つべきではないし、富が私たちに増し加わったとき、鷲の羽根を身に着けるべきではないと言うでしょう。このように言う人に対しては、先ず、こう答えねばなりません。つまり聖書には、幾つかの動物の名前が、両方の意味で、すなわち悪い意味と善い意味で使われていると。たとえば獅子は、善い意味でも悪い意味でも取られています。善い意味では、次のようになっています。「ユダは獅子の子。私の子よ、お前は頭をもたげて上ってきた。お前は獅子のように、そして獅子の子のように横になって寝た。誰がお前を起こせよう[4]」。他方、悪い意味ではこうなっています。「私たちの敵である悪霊が、吼えたける獅子のように獲物を求めて歩き回っています。私たちは信仰に固く踏みとどまって、これと対抗しなければなりません[5]」。しかし悪霊は、躓かせようとして、「獅子が洞窟に身を潜めるように、隠れたところで待ち構え、貧しい人を捕らえようと待ち構えている[6]」とあります。したがって獅子が善い意味でも悪い意味でも言われているわけですから、鷲もこの二つの意味で理解してもおかしくはないわけです。そして私が思うに、義人は鷲ではなく、鷲のようなものです。なぜなら義人は、鷲になぞらえられるからです。ちょうど青銅の蛇が救い主の予型であるように[7]――たしかにこの青銅の蛇は、本当の蛇ではなく、蛇を模したものです。救い主はこう言っています。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない[8]」と――、これど同じように義人も、鷲であるというよりも、むしろ鷲に似たものなのです。なぜなら鷲の像に従うことが、義人にとって有益だからです。この理解に従うと、他の個所でも、義人は、「蛇のように賢く[9]」なれという掟を受けています。それは、義人が蛇になるためではなく、本当の蛇の狡猾さに捕われるなということなのです。ところで神の聖書を注意深く吟味する理性と、「霊はすべてを究め、髪の深みまでも究める」と書かれている霊が誰かの魂に訪れたなら、それは次のことを聖書からきわめて明瞭に示してくれるでしょう。すなわち、鷲と獅子は清い生き物の一部と見なされており、神のケルビムは、「その右側の四つの部分に人間の顔、獅子の顔を持ち、その左側の四つの部分に牡牛の顔、鷲の顔をもっている[10]」ということを極めて明瞭に示してくれるでしょう。そしてこのケルビムのうちに見えるもの、すなわち、鷲と獅子は清いものです。なぜなら神の戦車には、不浄なものは何もないからです。そして異邦人出身のあなたが信仰を得て清くなり、また、天から吊り降ろされてペトロに示されたすべての生き物について「神が清めたものを、お前は、ありきたりのものと言ってはならない[11]」と言われているように、ケルビムの内に現れた獅子と鷲は、清められているのです。また、キリストの到来において起こると予言されていることも、獅子が清いものであること、そして不浄なものと言われている鷲も清いものであることが認めています。実際、「狼と子羊がともに草を食む[12]」のです。ところで羊に害を加えずに羊とともに草を食む狼は、もはや警戒の必要がありません。しかし私は、「羊の衣を着てあなた方のところに来る人々人に注意しなさい。彼らは、その内側では貪婪な狼である[13]」と言われているその狼について、このことを言っているのでありません。こう言われています。「彼らはその内側では、貪婪な狼である」と。実際、「狼と子羊がともに草を食み、子牛と牡牛と獅子は等しく食べる」とあるのですから、他の狼たちは、貪婪ではありません。しかしキリストの信仰の内にかくも異なる諸々の本性の結合が実現された暁には、獅子はもはや穢れたものではなく、その獰猛さを忘れることでしょう。そして神の律法(の書)において穢れたものと言われているすべての動物が[14]、最初の創造の純粋さを取り戻すことでしょう。このことは既に、部分的に実現しました。しかし(キリストの)第二の到来のときにもっとも完全に成し遂げられるでしょう。ですからケルビムの内に示された神秘は、この(変容の)真理を先取りしています。実に獅子と鷲の顔が他の諸々の顔と同族関係にありますから、ケルビムの内に現れたことは、ともに草を食む子牛と牡牛と獅子(の神秘)よりも偉大であるように私には思われます。イザヤは、預言した諸々の動物について、それらが互いに結ばれ一つになることについて何も約束していません。これに対してケルビムでは、それぞれの動物は他の動物と同族関係にあり、「子牛の顔は獅子の顔」と同族関係にあり、「人間の容貌は鷲の容貌」と同族関係にあるのです[15]。ですからあなたは、ファラオとそれに先立つネブカドネザルが鷲と名づけられるとともに、義人たちが翼を取って「まるで鷲のようだ」といわれ、神の恵みにおいて豊かなものとなり、(空を)飛翔するために「鷲の翼を身に備え」ても、大げさに驚いてはなりません。



[1] Cf.Lv.11,13.

[2] Cf.Pr.23,4.5.

[3] Cf.Is.40.31.

[4] Gn.49,9.

[5] Cf.1P.5,8.9.

[6] Cf.Ps.9,9.

[7] Cf.Nb.21,8s.

[8] Jn.3,14.

[9] Cf.Mt.10.16; Hom.Ex.4,6.

[10] Cf.Ez.10,14.

[11] Cf.Ac.10,15.

[12] Is.11,6.

[13] Mt.7,15.

[14] Cf.Lv.11,13.

[15] Cf.Ez.1.10.

 

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