さて目下の課題に戻ってみると、ネブカドネザルについてある特別なことが示されています。すなわち鷲は大きく、その翼も大きくて[1]、それを拡げると極めて大きいので、ネブカドネザルは大胆にもこう言っているのです。「私は力の限り振る舞い、知性の知恵を持って諸国の民の境を取り除く。私は彼らの力を取り除き、彼らが住まう町々を混乱させ、全地を鳥の巣のように手でつかみ、粉々になった卵のように取り除く[2]」と。ご覧ください。鷲の翼の広がりはこのようなものなのです。しかしこれだけでは十分ではありません。彼は爪と多くの羽に満ち、レバノンに侵入して、レバノン杉の最上の枝を引き抜くことができたのです。レバノンに住んでいた人たちが罪を犯さないかぎり、すなわちエルサレムに置かれた人たちが諸々の罪悪に捕われないかぎり、この「大きな鷲」は、レバノンに侵入する権能を持たなかったでしょうし、諸王の杉の種や王族の枝などの選り抜きのものを奪い取ることはなかったでしょう[3]。実際、これらのものは、しばらくの間でしたが頑なな心でなかった柔らかい若枝なのです[4]。しかし、鷲は、それらのものを奪い去りました。なぜならそれらのものは、主に対して罪を犯したからです。この大きな鷲は、すべての木の極上の残りの枝もカナンに運んでいきました。なぜならバビロニア人たちの地は、比喩的に、呪われたカナンの地と言われているからです。これについてノアは、次のように言っています。「カナンの子は呪われよ。彼は、その兄弟たちのしもべとなる[5]」。さらに鷲は、杉から奪ったものを、商人たちの町とか、商売の町、運搬者たちの町、ともかく城壁で取り囲まれた町に置き、地の種を奪いました[6]。しかしその種は、もはや大きな種ばかりでなく、小さな種であり、ユダヤの民から奪い取ったものです。「そして鷲は、その種を葉の生い茂る野に与え、豊かで貴重な水の傍らにそれを置いた。そして芽が出て、その種は、虚弱なブドウの木となった[7]」とあります。たしかに神の民は、バビロニアで衰弱し手しまいました。そして彼らは、「主の讃歌を歌うことができず、こう言っています。「どうして私たちは、主の讃歌を異国の地で歌えようか[8]」と。たしかにバビロニアに植えられたブドウの木は、弱らざるを得ませんでした。バビロニアのブドウの木となり始めたものは、どのようにして以前の力を保つのでしょうか。このブドウの木は、聖なる地で実を結ばなかったので、鷲によって運ばれ、カナンの地に置かれ、虚弱で小さなブドウの木となりました。聖なる地にある限りは、それは大きなブドウの木でした。しかし罪人たちの国に移されたとき、それは虚弱で小さなブドウの木となりました。ですから、私の話をお聞きのブドウの木であるあなたも、大きなブドウの木でありたいと願うなら、教会の境から出ることを望まず、聖地エルサレムに居つづけてください。しかしもしもあなたが、罪のゆえに、より悪い状態に陥ったなら、あなたは、別の地に移され、小さなブドウの木となって、あなたの若枝は(地に)落ち、あなたの根は干からびてしまうでしょう。そしてその結果あなたは、後になると、いま言われたように、「大きな翼と多くの爪を持った[9]」別の鷲の上で安らいたいと望むようになるのです。断罪を受けた人は、断罪する人がよしとするまで、断罪の判決のもとに留まるのは善いことです。私たちはみずから進んで、ファラオもとに駆け寄らないようにしましょう。もしも私たちがファラオのもとに駆け寄るとすれば、私たちは、神に反したことになります。なぜなら神はこう言っているからです。「私は、主、あなたを奴隷の家であるエジプトの地から導き出したあなたの神である[10]」と。私たちは、自発的にというよりは、むしろ断罪された者としてファラオのもとに馳せ参じたのであり、彼のもとに無理やり引きずられたのです。



[1] Cf.Ez.17,3.

[2] Is.10,13.14.

[3] Cf.Is.17,12.13.

[4] Cf. Ez.17,4.

[5] Gn.9,25.

[6] Cf. Ez.17,4.

[7] Ez.17,5.6.

[8] Ps.136(137),5.

[9] Cf.Ez.17,7.

[10] Ex.20,2.

 

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