5 次に、「大きな翼と多くの爪を持った別の大きな鷲が現れた。そして見よ、このブドウの木はそれを」、すなわち「第二の鷲を抱きしめた」という言葉が続きます[1]。私たちがあるひとつの敵対する霊から別の霊に移されることがしばしばあります。事実、私たちが『エレミア記』のところで読んだように、神は、イスラエルの「民がネブカドネザルのくび木の下に首を置くように[2]」お定めになり、この隷属状態から逃れようとする人を脅かしになりました。そして私は、『エレミア記』の解説をしたとき[3]、あなた方の祈りによって神の恵みが私に与えてくださった事柄を、あるいは私が思う事柄を、提示するように努めました。しかしイスラエルの民は、命じられたことを行おうとはせず、「ファラオに向かってその枝を伸ばしました」。そしてイスラエルの民は、ファラオによって、「彼の植物園の土地に植えられ、豊富な水を含む畑の中で、極めて多くのみを結んだ」のでした[4]。そしてイスラエルの民は、エジプトを離れた後、再びエジプトを懐かしがり、かつての豊穣さを手に入れようと考えました。イスラエルの民は、ネブカドネザルからファラオのもとに過ぎ越すなら、しっかりと根を張って丈を伸ばし、数々のみを結ぶと考えていました。しかしすべては、彼らが考えたのとは正反対の結果になりました。実際、その実はことごとく腐って落ちてしまい、バビロニアでわずかながらに成長した枝も、場所を変えることによって干からびてしまいました。その結果、それは根から引き抜かれてしまい、もはや大きな枝にも数多くの民にもならないのです。一体このような事態は、どのような神秘を含んでいるのでしょうか。それぞれの言葉は何を意味しているのでしょうか。しかし聞き手の人たちがいるのであれば、私たちは、ある別のエルサレムに上っていって、そこで大きな鷲はどのようにしてみずからの道を進んでいったのか、そしてどのようにしてそれが、いま私たちの占めているバビロニアに「(エルサレムの)極上のもの」を運び去ったのか、明らかにすることができるでしょう。私たちは、ファラオについてもっと神聖なことを語ることができます。しかし時間も押し迫っていて、おそらく私の力に余ることを無鉄砲に約束することになりますから、より小さなことに戻って、私の知力の範囲内で説明することにいたしましょう。このレバノン、すなわち神のホスチアが祝われ、「祈りの香がささげられる」教会に[5]、ネブカドネザルというあの大きくて真実の鷲、すなわち悪魔がやって来て、略奪したのです。しかし、この鷲が「杉の内で極上のもの、すなわち指導者たちと王族の種とを運び出す」ようなことが、私たちの時代にありませんように。私たちは、しばしば起こったことが起きないように祈りましょう。実際、教会の指導者だった幾人かの者たちが、みずからの罪のゆえに捕らえられ、バビロニアに連れて行かれ、レバノンの頂から連れ去られました。彼らについては次のように言わねばなりません。大きな爪を持ち、羽を広げた大きな鷲が、極上の杉を取って、それをレバノンすなわちエルサレムから引き抜いて、カナンの地に植えましたと。しかしこの鷲は、極上の杉、すなわち生まれにおいて最善のものを横領するだけではありません。それは、地の種を奪い、カナンの地に運んでいきます。このとき人々の内で誰かが罪を犯し、神の民の誰かが、悪魔の罠の数々にはめられているのです。ですから私たちは、昼も夜も、私たち自身のためばかりでなく、私たちの兄弟たちのためにも神からの助けを懇願し、エルサレムから誰かがカナンに運び去られないようにいたしましょう。そして神のみ胸を捨て去って、神の意思から別の鷲に向かい、私たちの上により大きな怒りが訪れないようにしましょう。また、すべての植物が腐敗したり、根とともに実が干からびたりしないようにいたしましょう。実際、エルサレムの植物は、他の土地では実を結ぶことができません。他の国では枝を張ることができません。それどころかそれは、神の意思とその教会とに固く踏みとどまらなかったなら、すなわちキリスト・イエズスの業と言葉と真理の知識の内に固く踏みとどまらなかったなら、その土とともに直ちに干からびてしまうのです。キリスト・イエズスに「栄光と力が代々にありますように。アーメン[6]」。



[1] Ez.17,7.

[2] Cf.Jr.34,5.6.

[3] Cf.Hom.Jr.1,3.

[4] Cf.Ez.17,7.

[5] Cf.Ps.140,2. Hom.Jos.2,4.

[6] Cf.1P.4,11.

 

始めに戻る