12講話

 

「人の子よ、苛立たせる家に向かって言え。『お前たちはこれらのことが何を意味するのか知らない』と」。

 

 私が「大きな翼と大きな爪を持った」二羽の「大きな鷲」について既に上で述べたこと、さらに、第一の鷲と第二の鷲が行ったことを、神のみ言葉は、今の場合、いわば預言の形で、すなわち象徴として部分的に提示することをお望みになり、手を触れないでそのままにしておいた事柄の理解を私たちに委ねられました。そして先ず、私が既に何度も申し上げてきたことで、ここで再び新しいことを持ち出すつもりはありませんが、預言者に対して次のように言われていることについても、(神が)私たちの魂に救いを与えてくださると申したいと思います。こう言われています。「苦々しい思いをさせる家」ないしは「腹立たしい家に向かって言え[1]」と。実に神は、「腹立たしい思いをさせる」とか「苛立たせる」という言葉に「私を」という言葉を付け加えてはおりません。そしてこの「苛立ち」がどのようなどのような罪であるかを、もしも私たちが知りたいと望むのであれば、理解力のある人にとって神のみ言葉がどれほど甘美なものであるか聞いて見ましょう。理解力のある人はこう言います。「あなたのみ言葉は、私の喉にどれほど甘美であることか[2]」と。これらの本性的に甘美な言葉を信仰ある人たちが受け入れた場合、彼らは(これらの言葉を)よく生きるか、まったく反対のことを行います。そしてもしも彼らが神の掟に従って歩むなら、彼らは、神のみ言葉を、そのみ言葉が生まれながらに持っている甘美さの内に保つことでしょう。しかし私の考えでは、日ごろの生活の善性によってまさに神のみ言葉の甘美さは増すのではないかと考えています。なぜなら彼らは、み言葉の甘美さに生活の甘美さを混ぜるからです。これに対してもしも誰かが罪を犯して邪悪になり、神の掟を逸脱するなら[3]、その人はもっとも甘美な神のみ言葉を受けておきながら、もっとも苦い罪の本性によって――実際、罪は苦いもので、み言葉の甘美さを無にするものです――、一切の甘味さを苦味に変えてしまいます。私たちが述べたことをあなたがもっと完全に考察できるよう、ここで一つの例を取り上げてみましょう。ニガヨモギと名づけられている草は、本性的に苦いものです。もしもあなたがこの草を、一定の質と量をもった蜂蜜に混ぜれば、この草は、その苦味によって、蜂蜜の甘さを圧倒し、甘いものを苦いものにしてしまいます。罪には、この草の力があるのです。もしも私がより多くの罪を犯せば、私は、神のみ言葉の甘さにますます多くの苦味を入れることになります。もしも私の犯した罪が大きかったら、私は蜂蜜の甘味をすっかり苦味に変えてしまうのです。ですから神も、罪人たちによって踏みにじられたご自分のみ言葉の償いをなさるとき、罪人たちの生活の苦味の質と悪意の程度に応じて、罰と責め苦の苦味で一人ひとりに報います。そして、以上のことを語り、ひとたび神を信じた私たちが罪を犯したなら、私たちは、神のみ言葉を損なったと言われるでしょう。これに対して、神の信からかけ離れていて、教会にも入ったことない人たちは、神のみ言葉を苦いものにはいたしません。実際どうして、そのような人たちが、まだ信じていないみ言葉の甘さを損なうことができるでしょうか。それゆえ、信じているように見せかけながら、その信仰の見せ掛けにおいて罪を犯す私たちには、まだ信仰の端緒を得ていない人に対するのとは別の責め苦が、準備されているのです。しかも私たちは、もしも私たちが罪を犯した場合、神のみ言葉を苦いものにするだけだと考えないで下さい。私たちの罪は、神ご自身の侮辱にまで達するのです。実際、こう書かれています。罪を犯す者は「律法の違反によって、神を侮辱している[4]」と。「侮辱している」と言うだけでは不十分でした。いま(パウロは)、「律法の違反によって、神を侮辱している」と言っています。私たちは、律法を破るたびに、神を侮辱いたします。私たちは大きな罪を犯せば犯すほど、私たちはより大きな侮辱で神を扱うことになります。私たちが、多くの罪を犯せば犯すほど、私たちは、おん父とそのキリストを侮辱することになるのです。こう書かれているとおりです。「神のおん子を踏みつけ、おん子を聖なるものとした契約の血を汚れたものとし、さらに霊の恵みに侮辱を加えた者がどれほど悪い責め苦に値すると、あなた方は考えますか[5]」。ですから罪を犯す人たちは、彼が受け取った神のみ言葉ばかりでなく、それを教える神ご自身をも、苦いものにし、恥辱を加え、侮辱することになります。



[1] Ez.17,12.

[2] Ps.118,103.

[3] Cf.Lv.26,23.

[4] Cf.Rm.2,23.

[5] He.10,29.

 

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