「あなたは、いま、この苦々しい家に言え。あなたたちは、それらのことがどのようなものであるかを知らないと[1]」。この言葉は、鷲のたとえ話の中で言われたものです。「バビロニアの王がエルサレムに来て、その王とその君子たちを手に入れたとき、あなたは言え[2]」。預言者の言葉の歴史に関する事柄について言いますと、ネブカドネザルがエルサレムに来て、ユダヤの王ヒゼキヤと、彼とともにいた君子たち、および、ユダヤの民の一部を捕囚として連れ去ったと、私たちは述べました。さらに私たちは、ネブカドネザルがどのようにして彼らをバビロニアの地に植えたかについても言及いたしました。しかし私たちは、文字に立ち止まってはなりません。私たちは、歴史にこだわってはなりません。いわんや、神の書において進歩を示し、「これらすべてのことは、彼らに象徴的に生じたもので、諸々の代の終わりが迫っている私たちのために書かれたもの[3]」だと知っているあなたは、特にそうです。さあ、ご覧ください。真のネブカドネザルが私たちの幾人かを捕らえようとして迫っています。まず彼は、できることなら、教会の君子たち(すなわち指導者たち)を捕らえて自分とともに連れて行きたいと望んでいます。しかしヒゼキヤやヨシュア、あるいは正しい欧が民の中に君臨している限り、このネブカドネザルは、君子であれユダヤの民であれ、敗北した者たちを連れ出すことはできません。しかしながら教会を指導しているように見える私たちが、もしも罪を犯し、「あなた方は悪魔に口実を与えないようにしなさい[4]」と言うパウロの掟に反して悪魔に口実を与えるなら、私たちは、自分たちがエルサレムで行ったわしたち自身の罪の故に、ある意味でネブカドネザルにきっかけを与え、彼が聖なる都に侵入し、彼が望む人を手当たり次第に連れ出すようにさせたことになるのです。これに対して、罪を犯さない人は、ネブカドネザルを撃退し、彼が神の地に入り込むことができないようにします。ですから私たちは、ネブカドネザルがこの教会という幸いな集会に近づかないように、力の限りを尽くして彼を撃退するようにいたしましょう。まず、「知識の鍵[5]」を手に取って、彼を撃退しましょう。健全な振る舞いと善良な行いによって彼を撃退し、彼がエルサレムの王とその君子たちを捕らえ、彼らを戦勝記念品してバビロニアに連れ去らないようにいたしましょう。しかしもしもこのどう猛な敵が私たちのうちの誰かを打ち負かすことができたなら、その敵は、彼をバビロニアに連れて行くことでしょう。何らかの土地の広い場所にではありません。それは魂のバビロニア、すなわち混乱です。私はしばしば、バビロニアが混乱と解釈されると申しました。実際、この敵に打ち負かされた人は、自分の心の混乱の中に連れ去られ、バビロニアに連れて行かれるのです。日毎の生活を省みて見ましょう。もしもある魂が、罪によって、悪徳によって、悲しみによって、怒りによって、欲望によって、貪欲によって魂が混乱させれら手いるのを見たならば、私たちは、その魂が悪魔によってバビロニアに連れ去られたことに気づくでしょう。これに対して、心の主導的能力の静寂や晴朗、平和が実を結んだならば、私たちはエルサレムがその魂の中にあるのを知るでしょう。実に、平和の直視が(その魂の)中にあるのです[6]



[1] Ez.17,12.

[2] Ez.17,12.

[3] 1Co.10,11.

[4] Ep.4,27.

[5] Cf.Lc.11,52.

[6] エルサレムを「平和の直視」と見なす解釈はオリゲネスにしばしば見られる。

 

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