「そして(ネブカドネザルは)、彼らをバビロニアに連れて行き、王族の中から人を選び、彼と契約を結んだ[1]」とあります。神のみ言葉を受け入れた私たちは皆、諸王の一族です。なぜなら私たちは、「選びの民、王的祭司、聖なる国民、神のものとなった民[2]」と呼ばれているからです。したがって、王族の位階に立てられた私たちの誰かが、自分の罪の故に悪魔によって捕われ連れ去れたとすれば、王族に属する人がバビロニアに連れ去られ、ネブカドネザルと契約を結んだことはまったく疑いありません。なぜなら彼は、神との契約を蔑ろにしてしまったからです。実際、人間は契約なしであはありえません。もしもあなたが、神との契約を内に持っているなら、ネブカドネザルはあなたと契約を結ぶことができません。ところがもしもあなたが神の諸々の戒めを破って、神との契約を斥けたなら、あなたはネブカドネザルとの契約を受け入れたことになります。実際、こう書かれています。「(ネブカドネザルは)彼と契約を結び、彼を呪いに陥れた[3]」と。神は、祝福の内に、私たちと契約を結ぶます。これに反してネブカドネザルは、呪いの内に契約を立てたのです。ネブカドネザルと契約を立てた人は、祝福の内にいることはできません。しかし聖書の教育を受けた人は、私に言うかもしれません。すなわち、私は、モーセの律法の内に、罪人に対して立てられた呪いを見出す[4]。したがってもしも呪いが、神の定めによって罪人たちに対して立てられたとすれば、これとは反対に、どうして悪魔のもとに何らかの祝福が存在しないのだろうか――これによって、ある者たちは悪魔のもとで祝福を受け、他の者たちは呪いを受けるようになるために、と。この鋭く辛辣に質問する人に立ち向かい、次のように言いたいと思います。まさにネブカドネザルからの祝福と言ってもよいようなものがあり、これは神さまが私たちから遠ざけてほしいものです。また、いま私たちが論じなければならない呪いがあって、これは、当然、罪人たちに臨むものです。では、ネブカドネザルの祝福とは、どんなものでしょうか。ある人が、この世で豊かになって幸福となり、また、「彼の雌牛は流産をすることがない[5]」と聖書に書かれていることが当てはまるほど、万事がすべて順調にはかどり、世のすべての繁栄を手に入れたとすれば、ネブカドネザルの祝福は、その人にあるでしょう。これに対して、ある人が神から離れたばかりでなく、悪魔の手に落ち、悲惨と責め苦とによって苦しめられるとき、その人には呪いがあります。そういうわけで、神は、いま聖書が思い起こさせているように、イスラエルの契約がネブカドネザルのもとにある呪いとなるように望んでおられるのです。そしてエルサレムの王がネブカドネザルとの契約を軽んじて、エジプトに自分の使者たちをエジプトに遣わして、ファラオと契約を結ぼうとしたとき、聖書は次のように言っています。「彼は目的を達しない。彼は救われない[6]」と。それゆえ私たちも、神によって報いを課せられたとき、忍耐強く耐え忍ばねばなりません。パウロは、肉の滅びのために、教会の集まりからある人を悪魔に渡しました。そして彼が肉の滅びのために渡したのは、渡された人を滅ぼすためではなく、渡された人の霊を無傷に保つためなのです。それゆえ聖書は、こう言っています。「肉の滅びのためにこのようなサタンに渡すのは、主イエズスの日に霊が救われるようになるためです[7]」。さて、罪人が諸々の責め苦に渡されるのは、現在において責め苦を受けるためですですが、それや自分の数々の罪に応じて苦しめられることで、未来に慰めを得ることでもあります。そして彼については、こう言われるでしょう。「彼は、自分の現生において諸々の悪を受けた[8]」と。したがってもしもだれかが、神によって罪人たちに定められたのろいに従った諸々の罰によって苦しめられ、この責め苦を(耐えるよりも)逃れることの望み、助けを得るためにエジプトのファラオのもとに使者を遣わしても――神は、ご自分の民をファラオのもとから解放したのでした――、その人は目的を達せず、救われることもないでしょう。これに対して、もしもだれかが、呪いやネブカドネザルの責め苦を忍耐強く耐え忍び、自分の罪の(償いの)時間を苦しみの内にまっとうしたなら、使徒の諸々の書簡で、苦しみを受けるのは、(苦しみを受けている)「人の霊が救われるようになるためである[9]」と言われているように、その人は、最善の終わり到達するでしょう。それで(ネブカドネザルは)、「彼を呪いに導き、その地の指導者たちを捕らえ、彼らの国を弱いものにする[10]」のです。実際、彼らの国は弱い国となります。なぜなら聖なる地からバビロニアに移さる王国は弱いものとなるからです。たしかにバビロニアには、すなわち自分の精神の混乱の内には強いものは何もありません。混乱をきたしている人は、私との契約を守るためであれ、(ネブカドネザルとの)あの契約を結んだ後それを離れ、エジプトに自分の使者を派遣するためであれ、決して立ち上がることはできません[11]。自分の諸々の罪のゆえにネブカドネザルから責め苦を受けている人が、神によって自分が敵の手に渡されたことに耐えられず、エジプトに自分の使者を使わして、自分に馬と多くの軍勢を与えてくれるように頼んでも、彼は、(聖書の)他の個所で禁じられていることを願っているのです。聖書は、こういています。「たしかにあなたは、自分の馬を増やすことはない[12]」と。「反対のことを行い、契約を破る人が目的を達し、救われるとすれば・・・[13]」とあります。ネブカドネザルとの契約を言い渡された者は、責め苦を耐えなければなりません。耐えなければ、その人について、「彼は、救われない[14]」と言われるでしょう。



[1] Cf.Ez.17,12.13.

[2] 1P.2,9.

[3] Cf.Ez.17,13.

[4] Cf.eg.Dt.27,13s.

[5] Jb.21,10.

[6] Cf.Ez.17,15.

[7] 1Co.5,5.

[8] Cf.Lc.16,25.

[9] 1Co.5,5.

[10] Cf.Ez.17,13.14.

[11] Cf.Ez.17,14.

[12] Cf.Dt.17,16.

[13] Ez.17,15.

[14] Ez.17,15.

 

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