ですから、この支配者は誰ですかと、私たちは言います。それは、私たちが嘆きを知ることによって、その嘆きについて、いま、言われることを私たちが避けるようになるためです。「ティルスの支配者は、嘆きの的になる[1]」とあります。神さまは、なんと慈しみ深い方でしょうか。ご自分を否んだ者たちさえも嘆いておられるのです! しかもこれは、愛の感情に由来するのです[2]。誰も、自分が嫌いな者を嘆いたりしません。それに嘆きの相手となる人は、死んだ者として嘆かれるものですが、まるで今でも捜し求められているかのように、生きて再会する望みがあるかのように愛されているのです。エルサレムも、嘆きの対象となったとき、こう書かれています。「イスラエルが捕われ、エルサレムが荒れ果てた後、エレミアは座して涙を流し、エルサレムについて嘆き悲しんで言った。『どうしてこの町は、独りで座っているのか、かつては人々で溢れかえっていたのに。この町は、かつては諸国民の中で豊かであったのに、無一文のやもめとなり、諸国の中で首位を占めていたのに貢物となってしまった』と[3]」。ネブカドネザルも、嘆きの対象になりました。異端者はどこにいるのでしょう。彼らは滅びるために創造されたと言う人はどこにいるのでしょう。彼らは、諸々の罪の責めを免れるために、創造主を非難しているのです。「お前は、バビロニアの王に対するこの嘆きを受けよ。そしてお前は言うだろう。『どうして攻撃する者は無為となり、(貢物を)強要する者は静まったのか』と[4]」。バビロニアの王について次のように言われています。「暁に上っていたルシフェルは、どうして天から落ちで砕けてしまったのか[5]」。このルシフェルは天から落ちました。そしてあのティルスの王は、もともと、歓喜の楽園で育てられ、(神の)似姿の刻印であり優美さの花輪だったのです[6]。さて、(聖書では)すべての人が「天から落ちた」と述べられていますが、「(天から)降りてきた」と言われていないことにご注意ください。実に私の主は、天から降りてこられました。そして降りてこられた方は人の子です[7]。しかしサタンは、違います。つまりサタンは、天から降りてきたのではありません。それにもしも(天から)降りてきたのであれば、彼に何か不吉なことは起こらなかっただろう。イエズスが次のように言うのを、あなたはお聞きください。「私は、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見た[8]」と。イエズスは、(サタンが)降りてきたとは言っていないのです。しかしながら、救い主だけが天から降りてきたのではありません。毎日、多くの者たちが「人の子の上を昇り降りしている」のです。実際、こう書かれています。「あなた方は、天が開け、神の使いたちが人の子の上を昇り降りするのを見るであろう[9]」と。そしてあなたも、あなたの上昇を期待してください。ただもうあなたは、廃墟から立ち上がって、次の言葉を聞いてください。「エルサレムよ、お前の廃墟から立ち上がって、お前がやがて天に昇ることを待ち望みなさい[10]」。そしてあなたに対しても、次の言葉が言われないように注意しなさい。「なぜ落ちたものが再び起き上がらないのか。なぜ離反したものが戻らないのか[11]」と。(自由から捕囚への)最悪の転回をする者はわざわいであると、主は言われます[12]。こうしてその人は、(天から)落ちてきた人の一人なのです。そして支配者が人間によって嘆かれます。なぜなら支配者は、人間に涙を流すべきだったからです。エゼキエルは、人間です。そして人の子です[13]。これに対して嘆かれるのはネブカドネザルで、バビロニアの王です[14]。あなたも、バビロニアの王に対して言われた嘆きをあなた自身の嘆きとして受け取ってください。そして「強要する者は静まったのか[15]」、云々と言ってください。また、あなたは、どれほど大きな希望に召されているかお考え下さい。人間であるあなたは、肉に囲まれてこう言います。「あなたは、私を乳のように搾り出し、私をチーズのように固められた。そして私に皮と肉を着させ、骨と筋で私を編んだ[16]」と。それで自分の現状について語ったあなたは、嘆きます。しかしあなたは、肉をまとっていない者を嘆くのです。なぜならあなたは、その者が落ちてきたあの高みへの希望に召されているからです。「イスラエルの罪によって、救いは諸国の民のもとに入ってきたのです[17]」。私は敢えて、もっと神聖な何かを申し上げることにいたしましょう。あなたは、転落した天使たちがいたところに昇っていくでしょう。そして、これらの天使たちにかつて委ねられていた神秘が、あなたに委ねられるに違いないのです。このことについて次のように言われています。「暁に昇っていたルシフェルは、どうして落ちたのか[18]」と。これに対して、あなたは、世の光となりました[19]。あなたは、ルシフェルに代わってルシフェルとなったのです。ルシフェルは、幾多の星の一つでしたが、天から落ちました。これに対してあなたは、もしもあなたがアブラハムの種から出ているのであれば、天の諸々の星の中に数え入れられるでしょう[20]。実際、「神は、アブラハムを外へ連れ出して、『(空の星を)見なさい。あなたの種はこのようになる』と彼に言われました[21]」。このことは、諸々の星が木の葉のように天から落ちるときに実現します[22]。そしてそのときには、「太陽の輝きと月の輝き、そして諸々の星の輝きは、それぞれ異なるでしょう。実際、星はそれぞれその明るさにおいて異なっています。諸々の死者の復活も同様となります[23]」。しかしながらあなたは、不誠実によって落下し砕けてしまったこのような小枝に対して高慢にならないようにしてください[24]。あなたは信仰に踏みとどまったからこそ、信仰によって昇っていったのです。あなたは、ティルスの支配者を嘆くことによって、そして私が上に述べた事柄を悲痛な思いで嘆き悲しむことによって教訓を得てください。つまり、ティルスの支配者が所有していた諸々の財貨の中に身を置いて、少しばかり高慢になり、あなた自身の心を細心の注意を払って守らないなら[25]、あなたまでも転落してしまうのです。ティルスの支配者に対して、(主が)何と言っているかご覧ください。「お前は、似像似姿の印章であった[26]」と。私としては、「似姿の印章」と言われている限りは、このことが何であるか知りたいものです。あなたは進歩すると、印章を受けます。なぜなら神は、印章を与え派遣した者の父だからです[27]。したがって信仰のある人たちは、常に主によって印章を与えられています。しかしここで次のような言葉が一般に言われることでしょう。斯く斯くしかじかの人は印章を受けず、斯く斯くしかじかの人は印章を受けたと。誰が印章を持っているのでしょうか。それは、神から印章を受けた人です。私は敢えてこう申し上げたいと思います。この印章を受けた人とは、「聖霊と火によって洗礼を授ける」人、「天の似像」を惜しみなく与える人[28]、あなたをより優れたものに向かわせて、「地の似像」をもはや担わないようにさせる人です。人間であるあなたは、この代から旅立つときに、悪魔の印章を刻印されないように注意してください。なぜなら悪魔も、(自分の)印章を持っているからです。「私たちが地の印章を担っていたのと同じように[29]」とあります。一体どのようにして、何時、誰がこの印章を記して、私たちが地の似像を持つようにさせるのでしょうか。「悪魔は徘徊して」、すべてのものを物色し、自分に服するものたちにみずから印章を押そうと狙っているのです[30]。悪魔は、一人ひとりの心を探って印章を押し、諸々の罪を通して、諸々の悪徳を通して、彼らの内に「地の像」を刻印し、彼らが「地の似像を担う」ようにさせるのです。イエスが、「皇帝の肖像と刻銘」について尋ねられたとき、お答えになったお言葉を、あなたはお聞きください。「聞く耳のある者は、聞きなさい」。すなわちイエスご自身が、請われた像をお持ちではなく、またイエスの弟子(ペトロ)もそれを持っていなかったので、イエスは、求められている像がどこに見出されるかを教えています。彼は言います。「海に行って釣り針を下ろしなさい。そして最初に上ってきた魚を取って、その口をあけなさい。そしてスタテル銀貨をあなたが見出したなら、それを取って、私とあなたのために(地上の王たちに)与えなさい[31]」と。私(イエス)は、この像と刻銘を持っていない。そしてあなた(ペトロ)も、もしも本当に私の弟子であるなら、もしも諸々の地下の門があなたに対して勝っていないなら[32]、その像と刻銘を持っていないことになる。したがってイエズスは、このような像を持ってはおられなかったので、別なところから、すなわち海から、魚を引き上げて、その(口の)中に入れられていた像を、ご自分のために与えるのです。そしてこの魚は、今日、朗読された「エジプトの川の上に座している龍の鱗にへばりつく諸々の魚[33]」に似ています。実に、この種の魚たちは、本当にこの龍の鱗にへばりついています。今日どれほど多くの魚たちが、水中に君臨する王に従っているのだろうか。実際、不可視的な竜についてこう書かれています。すなわち「彼(レビヤタン)は、水の中にいるすべてのものの王である[34]」と。しかしあなたは、水の中にはおりません。あなたは、あなたに約束された地にいるのです。以上のことを申したのは、私たちが、「似姿の刻印」が何であるかをより綿密に明らかにするためでした。似姿の刻印があったときは、何と幸いだったことでしょう。あなたがこの刻印の似姿になるには、まだ多くのものを欠いています。あなたはまだ、この賜物から遠く隔たっています。たしかに神は、「我々は、人間を我々の像と似姿とにかたどって造ろう[35]」とおっしゃいました。しかしながらあなたはまだ、この似姿を獲得していません。たしかに神は、「人間を神の像に即してお造りになりました」。しかし、似姿はどこにあるのでしょう。「(おん子が)現れるとき、私たちはおん子に似た者となるでしょう。なぜなら私たちは、おん子をありのままに見ることになるからです[36]」とあります。私は、預言者によって言われた次に言葉も同様に理解したいと思います。すなわち、「神よ、誰があなたに似ているでしょうか[37]」。また、「誰が、忠実で賢明な家令であると、あなたはお考えになりますか[38]」という言葉も、まさに、「もしも(おん子が)現れたなら、私たちはおん子に似た者となるでしょう」という言葉と同じように理解したいと思います。一体どのような人が、おん子に似た者となるのでしょう。使徒たちと同じように、似姿を受け取った人は、実にわずかです。「我々は、我々の像と似姿とにかたどって人を造ろう」とあります。ですから、目下、嘆かれている人は、かつて知恵に満ちていて似姿となっていた人です[39]。そしてあなたも、エゼキエルと(同じ立場に)なったなら、その人を嘆くことになるのです。私は、あなたもかつて知恵に満たされていたかどうか知りません。しかし(預言者によって)嘆かれている人は、かつて知恵に満ちていました。そして「美しさの冠[40]」となっていました。「美しさの冠」であった人がどのような人であったか、お考えください。彼の内にあったのは、単純に美しさとか栄光とかであったのではありません。「栄光の冠」があったのです。あなたは、あなた以外のところにこの冠を捜そうとしてはなりません。むしろ魂の領域のあたりに捜すべきです。そこは、思考の座、知性の座であり、真の美さがあるところです。たとえあなたが、肉や血、体液、血管のあるところ、すなわち肉体的な物質に美しさを捜し求めて、見つけることはできないでしょう。真実の美は、実に、救い主の内にあります。そしてその美しさは、救い主の惜しみない慈しみと憐れみによって、すべての人たちの魂に分け与えられました。「力みなぎる方よ、あなたの麗しさと美しさにおいて、腰に剣をつけてください[41]」とあります。ですから、私たちの魂と心の主導能力との中には、何らかの美しさがあるのです。そしてこのような美しさが、人間の魂に及んでいることを、預言者はあなたに教えて言っています。「娘よ聞け。そして見よ、耳を傾けよ。民を忘れ、お前の父の家を忘れよ。なぜなら王」すなわち花婿は、「お前の美しさに夢中だ[42]」からである。誰がこのように美しい魂を持っているでしょうか。誰がこれほどの美を所有しているのでしょうか。誰がこのようにすべての汚れとは無縁で、「王があなたの美しさに夢中になっている」という言葉を言われるのでしょうか。そしてあなたは、今もこの美しさを捜し求め、王に喜ばれようと努めています。しかしあの(テュロスの)支配者は、かつて持っていた美から、醜さへと落ちてしまいました。そして私たちは次のことが諸々の体において起こるのをしばしば目にします。すなわち、麗しく美しい容貌の婦人は、病や衰えのために自分の美しさを失い、老齢のために顔の輝きを喪失するということを、しばしば目にします。それと同じように、美しかった魂も、その弱さによって美しさを喪失し、老齢のために醜くなるのです。確かに魂が、「その行いとともに古い人間を身にまとった[43]」なら、その魂は、その老齢によって本来の美しさを失っているのです。イエズスは、古い人間から、そして老齢を示す諸々のしるしから、私たちを連れ出すために来られました。実際、使徒が言っているように、皺は、高齢のしるしです。「キリストは、シミも皺も、その他これに類するものもなく、聖にして汚れのない栄光ある教会をご自分に現させるために[44]」と、使徒は言っています。ですから(私たちは)老齢と皺から、青年期に移ることができるのです。そしてこの点において驚くべきことは、肉体が思春期から老衰にまっしぐらに進むのに対して、魂は完成の域に進み、老年期から思春期に変わるということである。それゆえ、「たとえ私たちの外なる人間が滅ぶとしても、内なる人間は、日々、新たにされるのです[45]」。あなたは、王が夢中になった美しさを知らなければなりませんでした。かつて美の冠であった者が誰であるか知らなければなりませんでした。そしてあなたは、この栄光を得たからには、転落しないように注意しなければなりません。なぜなら転落したあの支配者も、かつては似姿の印章であったのであり、知恵に満たされており、美の冠だったからです。「お前は、お前の神の楽園の歓喜の中で汚れた[46]」。(預言者は)単純に「楽園の中で」とは、言っていません。彼は、「歓喜の楽園の中で」と言っています。私は、楽園に何らかの違いがあるのかどうか尋ねます。そしてもしも楽の楽園に誰かいるとすれば、彼は歓喜の楽園の中にいないのでしょうか。ちょうどあの盗人がイエスといっしょに第一の時刻に、楽園に入ったように[47]。もしも私があなたに質問して、あなたは彼が楽園に入ったとお思いますかと尋ねるなら、疑いもなくあなたは、彼は楽園に入ったと答えるでしょう。また更に私があなたに質問して、ではどうでしょう、彼が楽園の中に入ったとき、直ちに歓喜の場所に入ったのですかと尋ねるなら、おそらくあなたは、彼は第一の時刻に楽園に入ったが、歓喜の楽園に入っていないと答えるでしょう。これに対して、もしも彼が、命の木や、神によって禁じられていないすべての木から食べているのを、あなたが見て、こうして彼が楽園のすべての木から食べ、いまや禁じられていないすべての木や楽園の木から食物を得ているのを観察するなら、私はあなたにこう質問したい。あなたはその人が、楽園にいるばかりでなく、神の歓喜の楽園にもいるとお考えになりませんかと。あなたは、彼が歓喜の楽園に置かれていると答える以外、何と答えるでしょうか。(彼のことを)嘆いているように見えるあなたは、その至福に向かって急いでいます。これに対して(あなたによって)嘆かれている彼は、かつて神の歓喜の内にいたのです。



[1] Cf.Ez.28,11.

[2] 省略

[3] Lm.1,1.

[4] Is.14,4.

[5] Is.14,12.

[6] Cf.Ez.28,12s.

[7] Cf.Jn.3,13.

[8] Lc.10,18.

[9] Jn.1,52.

[10] Cf.Is.51,17.

[11] Jr.8,4.

[12] Jr.8,5.

[13] Cf.eg.Ez.2,1.

[14] Cf.Ez.29,18.

[15] Is.14,4.

[16] Jb.10,10-11.

[17] Cf.Rm.11,11.

[18] Is.14,12.

[19] Cf.Mt.5,14.

[20] Cf.Lc.10,18.

[21] Cf.Gn.15,5.

[22] Cf.Mt.24,29; Is.34,4.

[23] 1Co.15,41.42.

[24] Cf.Rm.11,18s.

[25] Cf.Pr.4,23.

[26] Ez.28,12.

[27] Cf.2Co.1,22.

[28] Cf.1Co.15,49.

[29] 1Co.15,49.

[30] Cf.1P.5,8.

[31] Mt.17,27.

[32] Cf.Mt.16,18.

[33] Cf.Ez.29,4.3.

[34] Cf.Jb.41,25.

[35] Gn.1,26s.

[36] 1Jn.3,2.

[37] Ps.70(71),19.

[38] Lc.12,42.

[39] Cf.Ez.28,12.

[40] Ez.28,12.

[41] Ps.44(45),4.

[42] Ps.44(45),11.12.

[43] Cf.Col.3,9.

[44] Ep.5,27.

[45] 2Co.4,16.

[46] Ez.28,13.

[47] Cf.Lc.23,39s.

 

次へ