しかしながら至聖所の道に沿った外の門(が閉められていること)には、さらに別の理由があります。門が閉じられたままでなければならない別の理由とは、いったい何でしょうか。先ほど述べた支配者は、主のみ前でパンを食べているのを誰からも見られないようにするために、そこに座っています。この個所を注意深く読む人は、聖書がある意味で、「眠っているあなたは起き上がりなさい[1]」と言っているのを理解できないでしょうか。その人は、死者の内から立ち上がって、閉じられているものを探すように駆り立てられているのではないでしょうか。私は敢えて言いたいです。より神聖なものはどんなものでも閉じられており、より明白なものは開かれていて閉じられることがないと。私たちは閉じられているものを明らかにして、それらを語ります。しかし福音書は、次のように証言しています。「律法学者とファリサイ派の人たち、あなた方、偽善者は、災いである。あなた方、律法の博士たちは災いである。あなた方は知識の鍵を持っていながら、自分たちが中に入らないばかりか、他の人々が中に入るのを阻んでいる[2]」。したがって閉じられたものを開くための知識の鍵のようなものが存在します。そして、みずから入らないばかりか、入ろうとする人々をも許さない人が、非常にたくさん存在します。また別の個所では、聖書の諸々の意味は、封印された書物であると言われています。「そして、この本の諸々の言葉は、封印された言葉のようになる。もしも(彼らが)この本を、文字を知らない人に与えて、『これを読んでください』と彼に言っても、その人は、『私は文字を知りません』と答えるだろう。また(彼らが)文字を知っている人にそれを与え、『それを読んでください』と彼に言っても、その人は『私は読むことができません。なぜならその本は封印されているからです』と言うだろう[3]」。この個所の意味を、ヨハネの黙示録はより明瞭に含んでいて、こう言っています。「天使が、周囲を回りながら、こう言っていた。『誰がこれらの封印を解いて開け、書かれていることを読むに相応しいか』。そしてこれらの封印を開いて、この本に書き記されていたことを読むことのできる人は、天にも地にも、また地の下にも見つからなかった。しかし私は泣いた。そしてある人が私のところにきて、私に言った。『泣くことはない。見よ、ユダ族から出た獅子、ダビデの種から生まれた子孫が勝利を収めた、この本を開き、その諸々の封印を解くために』と[4]」。そしてダビデの根から出た子孫は、(その本を)開いて、書き記されていることを明らかにしました。私の主が来られなかった間は、律法は閉ざされていました。預言の言葉は閉ざされていました。旧約聖書は覆いが掛けられていました。そして「今日にいたるまで、モーセの書が読まれるときには、ユダヤ人たちの心の中に覆いが掛けられているのです[5]」。覆いを取り除いて解釈する人々を憎み、覆いを愛する人たちがいます。しかし私たちは、主の方に向き直り、覆いを取り去ってこう言います。「私たちは皆、顔の覆いを取り除かれて、主の栄光を見ながら、栄光から栄光へと(主と)同じ姿に変容されるのです[6]」と。しかしながらただ一つ閉められた門があります。そこを通るものは誰もおりません。実に全被造物には知られず、唯一の方にだけ知られたものが存在します。おん子は、ご自分が知っているものをことごとく、この世に開いたのではありません。被造物は、神が捉えるものを(ことごとく)捉えるわけではありません。より劣った例を挙げれば、諸々のしるしは、(神と)同等に知識を捉えるのではありません。テモテよりも、パウロの方が多くの知識がありました。なぜならパウロは「選びの器[7]」だったからです。とはいえテモテは、「家の中で」大きな器でありますから、私には捉えることができないものを捉えることができます。そしておそらく、私よりも少なく捉える人がいるかもしれません。またキリストだけが捉えるものが存在します。ですから、こういうわけで、神の神殿の扉は閉じられているのです[8]。この扉が何であるかと、私は問います。これは、外部の世界の事柄と非物体的な事柄、こう言ってよければ、非物質的な事柄とを開く外の扉なのです。またこの「外の扉は常に閉ざされている」という言葉が置かれているのは無駄なことではありません。この「外の扉」は何でしょうか。それは聖所の扉なのです。ではなぜ、それは閉じられているのでしょうか。それは、イスラエルの神なる主だけがそこを出たり入ったりするからです。なぜ主はそこを通って外に出られるのでしょうか。それは知られるためです。誰によって。支配者によってです。閉じられた門の傍にいるこの支配者は誰でしょうか。それは、救い主です。彼は、パンを食べます。彼は、おん父とともに門をしめます。彼は、霊的な食物を食べます。彼は、こう言っています。「私の食べ物は、私を遣わした方の業を完成させるために、その方のご意志を行うことである[9]」と。こうして扉は閉ざされているのです。それは大祭司が聖所でパンを食べているところを誰も見ないようにするためです。



[1] Cf.Ep.5,14.

[2] Cf.Lc11,52.

[3] Cf.Is.29,11-12.

[4] Ap.5,2-5.

[5] Cf.2Co.3,14.15.

[6] Cf.2Co.3,16.18.

[7] Cf.2Tm.2,21.

[8] Cf.Ez.44,2.

[9] Jn.4,34.

 

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