ところで私たちが述べてきたことを証明するために、自分の心から覆いを取り去って『レビ記』を読む人は、司祭たちの神秘を知ることができるでしょう。実際、『レビ記』には、司祭だけが食べることのできる生け贄と食物のことが述べられています[1]。たしかに祭司の食物が存在しますが、それは祭司が自分の家で、子どもたちとも――たとえ子どもたちが祭司の家系に属するとしても――、また妻とも――たとえ祭司がその妻と合法的に結婚していたとしても――食べない食物で、ただ聖なる場所で食べる食物です。祭司は、聖所で肉を食べます。祭司は、自分の家でも他のどんな場所でも肉を食べませんが、聖所で肉を食べます。それと同じように、私の救い主だけがパンを食べるのであって、いかなる人も彼とともに食べることはできません。しかし食事をする方がこの私をも食事に招いて下さるある場所が存在します[2]。実際、「見よ」と救い主は言っています。「私は(扉の前に)立ち、(扉を)たたく。もし誰かが私のために(扉を)開けたなら、私はその人のところに入って、その人とともに食事をし、その人も私とともに食事をする[3]」。ここから、救い主とともに食事のできる場所が別に存在し得ることが判明します。しかし救い主だけが食べることのできるある食物が存在します。すなわ全被造物を凌駕し、すべてのものから超絶した救い主の本性は、彼をして「日毎のパン[4]」をおん父の本性から食べるようにさせているのです。私たちの一人ひとりは、日毎のパンを求めなければなりません。そして「日毎のパン」を求めながら、同じパンを同じ分量で受け取るのではありません。とはいえ私たちは、混じり気のない祈りと清い良心の内に、そして義の行いの内に「日毎のパン」を食べなければなりません。もしも誰かがあまり純粋でないならば、その人は、違った風に「日毎のパン」を食べることになります。しかし、「すべてのものの裁き主[5]」である主が、私たちに「生けるパン」を与えてくださいますように。そしてそのパンに養われ強められて、キリスト・イエズスを通して全能の神に栄光を帰しながら、天への道を歩むことができますように。キリスト・イエズスに、「栄光と支配が代々にありますように。アーメン[6]」。



[1] Cf.Lv.6,26.

[2] Cf.De Or.27,11.

[3] Cf.Ap.3,20.

[4] Cf.Mt.6,11.

[5] Cf.He.12,23; Jn.6,51.

[6] Cf.1P.4,11.

 

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