「おまえは預言しなさい。そして自分の心のくままに預言する預言者たちに言いなさい[1]」。(エゼキエルは)単純に、「心のくままに」と言ってはいないのです。「そしておまえは預言しなさい。そして彼らに言いなさい。『あなたがたは、主のみ言葉を聴きなさい』と[2]」。これらの言葉は、私に、あるいは自ら教師[3]であると自認する人に向けて言われています。その目的は、神へのより大きなれが私たちの内に生じることによって、私たちが、人間たち(の手)によってではなく、天使たち(の助け)によってものされた注解書のいのもと、教話を公表する危険にることのないようにするためなのです。実際、私は知っています  (最後の)審判において、(預言者)ダニエルが預言した裁判官の一団が「席に着き」、「もろもろの書物が開かれる[4]」とき、私のすべての努力、私の注解書のすべてが、私の弁明のために、あるいは私の断罪のために、されるのです。正しく語られたものは、私の弁明となるでしょう。しかし、真理の要求にれて解説されたものは、(私の)断罪となるはずです[5](イエズスは)「あなたは、あなたの言葉によって義とされ、また、あなたの言葉によって断罪される[6]」とせになります。(イエズスは)まるで、(あなたと呼ばれる)その人が、義とされる言葉のすべてを持っているわけでもなく、また断罪される言葉のすべてを持っているわけでもないかのように語っているのです。もしもだれかが、後で必ずめられるべき(神とは)無縁の言葉かられていれば、その人は、自分の「言葉によって義とされるでしょう」。これに対して、決して正しいことを語らず、いつも邪悪な事柄を表明していたのであれば、その人は、自分の「言葉によって断罪され」、「義とされる」ことはないのです。に私たちは、「あらゆる点で完全[7]」なのではありませんし、いつも「義とされる」ように語っているわけでもありません。また逆に、私たちは、いつも「断罪される」ほどの罪人でもありません。私たちは、「義とされる」言葉と「断罪される」言葉の両方を持ち合わせています。ですから神は、ご自分の竿秤に両者をせて入念にり、どのような言葉で私が正しい者とされ、また、どのような「言葉で断罪される」べきなのかを判断なさるのです。さらに神は、「言葉」の場合になさることを、やはり「行い」の場合にも行われます。実際、私たちが「義とされる」行いもあれば、私たちが「断罪される」行いがあるのは、必然です。また、私は、義人とさるようなすべての行いを持ち合わせているほど完全ではありませんし、やることなすことのすべてがあらゆる点で私を「断罪する」ほど、私は罪人なのでもありません。行いにはこのように二つの種類があるということは、次のように言われる(使徒の)言葉から明らかです。「ある人々の罪は、裁きに先立って明らかですが、ある人々の罪は、(裁きの)後に続きます。これと同様に、善い行いも明らかです。また、そうでない行いも、隠れたままであることはできません[8]」。考えについても同様です。「互いに責めたり弁護し合ったりするさまざまな思い[9]」の中で、私の行うこと、考えること、語ることのすべてについて、裁きが私を待ち受けています。それゆえ私は、あの裁き(の日)に一体何が私に起こるのかを、不安げに待っています。私の行ったすべてのことで私は報いを受けなければならないという、神へのれがより大きく私をえば襲うほど、私はいよいよ私自身を警戒しなければなりません。どうか、すべての罪から、それが私にあたわぬことであれば、せめてもっとも重い罪からられますように 以上は、「自分心のくままに預言する[10]」人たちに関して、私たちが述べてみたものです。

 彼らに対してこう言われています。「あなたがたは、主のみ言葉を聞きなさい。主なる神はこう言われる[11]。『いかな、自分の心のくままに預言する者たち、自分の霊の後に従って歩む者たちは』[12]」。罪には二種類あります。一つは「心」の罪。もう一つは「霊」の罪[13]。最初に、よい面を検討して、次に反対対立す事柄[14]が考察できるようにしましょう。使徒はこう言っております。「私は霊で祈り、理性で祈りましょう[15]」。  「理性」の住まいを「心」の中に持つ  「私は、霊で歌い、理性でも歌いましょう[16]」。したがって、私たちの内には、「霊」と「理性」とがあります。そして、聖なる人が「霊で祈り、理性でも祈り、霊で歌い、理性でも歌う」ように、りの預言者である者は、「自分の心のくままに預言し」、神の「霊の後に従って」ではなく、「自分の霊の後に従って歩む」のです[17]。たしかに人の「霊」というものがあって、それは人間の中に住んでいます。私が、この(人の)「霊の後に従って歩む」ことがありませんように。むしろ私は、神の聖なる霊を(理性によって)理解しつつ、私の神である主の「み後に従って歩み」ましょう[18]。こうして「(自分の)心のくままに預言し」、神の「霊の後に従って」ではなく、「自分の霊の後に従って歩む預言者たち」は、ギリシア語でkaqo,lou[19]と言われるもの[20]を「決して見ない[21]」のです。この言葉の意味は、曖昧です[22]。彼らは、何かを部分的には見るとしても[23]、普遍的なもの、すなわちkaqolika,[24]を「決して見ない」のでしょうか。あるいは彼らは、自分では何かを部分的に見ていると思っているますが、(実のところ)何も見ていないのではないでしょうか。後者の方がよいと、私には思われます。実際、私たちの中には、身体の中にある目の他に、それよりもれた目があります。この目は、主イエズスがご自分を見るようにとお造りになったもので、主イエズスを見ます。さもなければまったくの盲目となるのです[25]。もしも私が罪人であれば、私は何も見ないでしょうし、真理の光を見ること[26]もできません。イエズスは言われています。「私は裁きのためにこの世に来た。見えない人は見えるようになり、見える人は盲目となるために[27]」。しかしもしも私が義人なら、私は神から恵みを受け、私は「先見者[28]」と呼ばれるでしょう。なぜなら「預言者たちは昔、先見者と呼ばれていた[29]」からです。「先見者よ[30]、行って、ユダの地にれ。そしてそこにまり、そこで預言せよ。しかしベテルでは、もう預言しようとするな[31]」と言われています。また別の箇所では、「アモスの息子、イザヤの見た[32]」とあります。「(主よ)私の目を開いてください。そうすれば、私はあなたののすばらしさをめるでしょう」と述べる預言者の願いの通り、主が「目を開いてくださり」、神の「掟のすばらしさを見る」人は[33]



[1] Cf.Ez.13,2.

[2] Ez.13,2.

[3] doctor

[4] Cf.Dn.7,10.

[5] 省略

[6] Mt.12,37.

[7] Cf.Ep.6,13.

[8] 1 Tm.5,24.25.

[9] Cf.Rm.2,15.

[10] Ez.13,2.

[11] 省略

[12] Cf.Ex.13,2.3.

[13] 省略

[14] 省略

[15] 省略

[16] 1 Co.14,15.

[17] Cf.Sel.Ez.11,3(XIV 212 Lomm.).

[18] 省略

[19] 「全面的に」、「一般に」、「普遍的に」という意味である。

[20] 省略

[21] Cf.Ez.13,3.

[22] 省略

[23] Cf.1 Co.13,9.

[24] 省略

[25] 省略

[26] 省略

[27] Jn.9,39.

[28] 省略

[29] 1 S.9,9.

[30] 省略

[31] Am.7,12.13.

[32] Is.1,1.

[33] 省略

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