さらに私たちは、預言者とりの教師たちを非難する別の言葉を考察してみましょう。どうか、私は願います、あなたがたのお祈りによって、私がこのような言葉をれることができますように。さて、その非難とは、どのようなものでしょうか。「イスラエルよ、おまえの預言者たちは、荒れ野にいるのよう[1]」。「狐」は、有害な動物で、悪賢く、らし難く、どう猛です[2]。救い主は言われています。「あなたがたは、あの狐にこう言いなさい。『見よ、私は、今日も明日も、病気を治し、三日目に尽き果てる』と[3]」。「サムソンは、異国人に対するために」、これらの「狐を必要としました。彼は、これらの狐の尾に火を結びつけ  彼は三百頭の狐をらえました  敵の収穫物を焼くために、それらを放ったのです[4]」。教師たちは、このようなもので、悪賢く、邪悪であり、同然なのです。もしも私がそのようなものであれば、私は「」です。ただし、単なる「狐」ではありません。「荒れ野にいる狐」、「廃墟にいる狐」、「岩場にいる狐」なのです。実際これらの言葉は、(聖書の)さまざまの版に含まれています[5]。これらの有害で腹黒いものたちは、常に「荒れ野の中を」徘徊しています。「何もない寂寥の地を[6]」常に徘徊しています。魂に神がお住まいになり、聖霊が魂を満たしている場合には、異端者たちの教えはその中に入り込むことができませんし、彼らの言葉は、その中に押し入る力を持ちません。ところが、キリストのいない寂寥[7]のあるところ、義の奪われた「荒れ野[8]」には、極めて有害な教えの毒薬がはびこります。それで(主は)「イスラエルよ、おまえの預言者たちは、荒れ野にいるのよう[9]」と言っておられるのです。

「彼らは、堅固な土台[10]の上に立たなかった[11]」。もしもあなたが、りの教師たちのことをお考えになれば、あなたは、彼らが弱く、不安定で、「(主は)私の足を岩の上に立たせられた。そして私の歩みを導かれた[12]」と言うことができないのが、おわかりいただけるでしょう。彼らは、言ってみればしっかりした根に基づいて立っていないので、「堅固な土台の上に立たず」、「自分たちの足を動かすことを」好みました。ところが、ほんのわずかでも足を動かすということは、まさに大きな罪なのです。詩編作者ダビデは、歌っています。「イスラエルの神は、心のい人に、何としみ深いことか。しかし私の足は、うく動かされそうになった[13]」。堅固不動の魂に強壮な「足」が与えられた人は、せ、大いにい。その人は、神から次の言葉を聞くのにするでしょう。「しかしおまえは、私と共に立ちなさい[14]」と。しかし、預言者は、そのような人ではありません。教師はそのような人ではありません。なぜなら彼らは「堅固な土台の上に立ってさえいない[15]」からです。



[1] Ez.13,4.

[2] Cf.Sel.Ez.13,4(XIV 213 Lomm).

[3] Cf. Lc.13,32.

[4] Jg.15,4.5.

[5] 省略

[6] 省略

[7] 省略

[8] 省略

[9] Ez.13,4.

[10] 省略

[11] Ez.13,5.

[12] Ps.39,3.

[13] Ps.72,1.2.

[14] Dt.5,31.

[15] Ez.13,5.