「そして彼らは、イスラエルの家に対して群を集めた[1]」。異端者の不敬な教えを宣べ伝えるものたちや、聴衆の耳をくすぐりこうとするりの教師たちが、群衆を教え、指導し、神の教会に対して、「イスラエルの家」に対して、分裂の「群[2]を集める」のです。

「『主の日にりのを見る』と言う者たちは、復活しなかった[3]」。彼らは、「復活しませんでした[4]」。しかし義人たちは復活して、こう言うのです。「私たちは、洗礼によってキリストとともにられ、キリスト共に復活しました[5]」と。たしかに私たちは、聖「霊の手付け[6]」を持っていて、私たちはその霊を、「完全な者が到来した後で[7]」、充分に受け取ることになっています。同様に、私たちは、私たちの間ではまだ完全な復活において復活した人はいませんが、復活の「手付け[8]」を持っています。しかしそれでも、私たちは「復活した」のです。パウロは言っています。「私たちは、洗礼によってキリストと共にられ、キリストと共に復活した[9]」と。ですから、「『主の日にりのを見る』と言う[10]」偽りの預言者たちや、偽りの教師たちは、「共に復活しなかった」のです。なぜなら彼らは、まだ復活の洗礼を受けていなかったからです。彼らの見るは、ことごとく偽りであり、また、彼らがいつか真理を見ることができることはありません。一つの例をお受け取りください[11]。聖書を読んで、そこに書かれていることとは別のことを理解する人は、聖書を偽って「見て」います。これに対して、聖書(の朗読)を聴き、真理の理解が得られるように聖書を解釈する人は、真理を「見て」いるのです。また、聖なる人たちは、いをしません。なぜなら、「ヤコブの内には占いはない[12]」からです。しかしながら罪人たちは、偽りの占いをして、こう言います。「主はこう言われる」と。「しかし主は、彼らをわしませんでした[13]」。あなたは、異端者たちが、どのようにして使徒たちの伝統を所持している[14]と言うのかお聞きください。あなたは、どのようして偽りの教師たちが、自分たちの教えは主の教えであり、自分たちの理解は預言者たちの理解と一致すると断言するのかをお聞きください。彼らは言います。「主はこう言われる」と。

「主は、彼らを遣わさなかった。しかし彼らは声を上げ始めた。おまえたちが見たのは、偽りのではないのか[15]」。そしてこれらの人たちは、自分たちの弁護のために声を上げようとしますが、主は彼らを反駁して、言われます。「おまえたちは、りのを見たのではないか。おまえたちは、しい占いを語り、私が語ってもいないのに、『主はこう言われる』と言った。それゆえおまえは(彼らに)言え。『主はこう言われる。おまえたちの話は偽りなので・・・』[16]」と。どうかみなさん、あなたがたは、私たちの言葉が偽りにならないよう、私たちのために祈ってください[17]。たといある人たちが、無知の判断によって、それらの言葉は偽りであると主張しても、主が(そう)言われなければ、私たちにとっては正しいことになるでしょう[18]。しかしたとい幾千の人たちが、それらの言葉は真実であるといっても、主の判断のもとでは偽りになるとすれば、私にとってどんなの利益があるでしょうか。マルキオン派の人たちは、自分たちの師の言葉は真実であるといっています。バレンティノス派の人たちは、師の作り話の注解を受け入れる自分たちの教派がもっとも強靱であると言っています[19]。しかしどんなに多くの教会が、異端的な歪曲かれ、彼らの考えに同調したとしても、それがどんな利益になるのでしょうか。必要なことは、主が、私の言葉の証言者としてそばにいてくださり、主ご自身が、聖書の証言によって(私によって)言われたことを裏打ちしてくださることであります[20]

「それゆえ、主なる神[21]はこう言われる。『私はおまえたち、偽りを見る預言者たちに対して私の手をばす』と[22]」。これらのかしは、りの教師たちと、「」を語る人々に向けられています。では、(主なる神が)彼らをどのように脅かしているかを、私たちは見てみましょう。「彼らは、私の民の訓練[23]に加えられない[24]」とあります。罪人たちは、ただ一つの方法で、主によってらしめられるのではありません。神の「民」が責められる方法と、神に無縁の人が責められる方法とは異なるのです[25]。「子どもたちよ、主の訓練をるな。主によって責められるとき、に思うな。なぜなら主は、ご自分の愛する者を懲らしめ、子として受け入れるすべての者をむち打たれるからだ[26]」とあります。「主よ」、私たちを「責めてください」。ただし、「(あなたの)怒りによってではなく、(あなたの正しい)裁きによって[27]」。これが、神の「民」の懲らしめであります。これに対して、罪人と(神に)無縁の人の懲らしめは、義人がむ懲らしめであります。義人は言っています。「主の、あなたの怒りによって、私を責めないでください。あなたのりによって私を懲らしめないでください[28]」と。こうして、りの教師たちと預言者たちとについては、「彼らは、私の民の訓練に加えられず、イスラエルの家の書にも記されない[29]」と言われているのです。(聖書の)他の箇所でも、「彼らは生ける者たちの書から消され、正しい人と共に書き記されない[30]」と言われていますが、今の場合にも「彼らは、イスラエルの家の書に書き加えられず、イスラエルの地にも入ることはできない[31]」と言われています。異端者たちは、「はなはだしく善い土地[32]」であるこの約束の地の外にまるでしょう。どうか私たちは、キリスト・イエズスによってあらかじめ「生ける者たちの書に[33]」書き記された後で、この約束の地に導かれますように、お祈りいたしましょう。キリスト・イエズスに、「栄光と支配とが、代々かぎりなくありますように。アーメン[34]」。



[1] Ez.13,5.

[2] 省略

[3] Ez.13,5.6.

[4] 省略

[5] Cf.Rm.6,4.

[6] 2 Co.1,22.

[7] 1 Co.13,10.

[8] 2 Co.1,22.

[9] Rm.6,4.

[10] Ez.13,5.6.

[11] Accipe exemplum

[12] Nb.23,23.

[13] Ez.13,6.

[14] 省略

[15] Ez.13,6.7.

[16] Ez.13,7.8.

[17] 省略

[18] 省略

[19] 省略

[20] 省略

[21] 省略

[22] Ez.13,8.9.

[23] 省略

[24] Ez.13,9.

[25] 省略

[26] Pr.3,11.12.

[27] Cf.Ps.71(72),2.

[28] Ps.6,2.

[29] Ez.13,9.

[30] Ps.68(69),29.

[31] Ez.13,9.

[32] Cf.Nb.14,7.

[33] Cf.Ps.68(69),29.

[34] 1 P.4,11.

 

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