「いかな、枕を縫い合わせ、それを両手のすべての  ないしは片手の肘に置く人たちは[1]」。彼らは、身体の養いに没頭し、霊的な歓喜[2]を夢にも見ない人たちで[3]、み言葉は私たちにこの霊的な歓喜を持つように望まれて、こう言っております。「主において歓喜せよ。主は、あなたに、あなたの心の望みを与えられる[4]」。彼らは、祝福された者たちの[5]を知らず  祝福された者たちの悦びについては、こう書かれています。「あなたは歓喜の流れを、彼らに飲ませられる[6]  彼らは、神の愛人ではなく、放蕩の愛人として[7]、いつも身体的な喜び[8]を求めているのです。また、「両手のに置かれたい合わされた枕」は、肉的な欲望[9]のしるしであるように、私には思われます。実際、身体を休めるために横になるとき、私たちは、針で刺繍された縫い物を私たちの「両腕の肘の下」に置いて使っているように見えます。ですから、おそらく神のみ言葉は、虚言やあらゆるもっともらしい約束によって大勢の聴衆を快楽や悪徳、欲望に押しやっている教師たちを、このような比喩や議論によって責めているのです。神のみ言葉であり神人であるおん方は[10]、聴く者に救いをもたらし、聴く者を節制と健全な行いの実践とへ駆り立てる事柄を告知しなければなりません。神のみ言葉であり神人であるおん方は、欲望にではなく仕事に熱心な人間が努めねばならないすべての事柄へと、聴く人を駆り立てる事柄を告知しなければなりません。こうして神のみ言葉を聞く人は、神によって約束されたものを獲得することができるのです。ですから、ある人が民の流儀に合わせて、彼らを喜ばせるために彼らの耳に聞こえの好い話をし、欲望に関係ある話をするなら、そのような教師は、「枕を縫い合わせ、それを両手のすべてのに置いて[11]」いるのです。罪のある人には、「すべての年齢の人々の頭を覆う頭巾[12]」を作るということが伴っています。では、この「覆い」は、どのようなことがらの象徴なのでしょうか。私たちは注意深く考察してみましょう。信仰を有し本当の人間である人なら、自分の「頭に覆いを」持ちません。むしろその人は、頭の覆いを取って神に祈り、頭の覆いを取って預言をします。彼は、身体的な事柄のしるしによって、霊的なことがらを秘めやかに示します。そのような人は、自分の肉体の「頭に覆い」を持たないのと同じように、自分の心の主導能力[13]にも「覆い」を持たないのです。もしもある人が無秩序と罪の業を行っているなら、その人は、いわば婦人の「覆い物」を自分の「頭」に着けているようなものです。こうしてだれかが、民に聞こえの好い話をし、賞賛者の喝采を求めるばかりで、(悔悟の)きを引き起こそうとしなかったなら、また魅惑的な敵対者となって、傷口をでるばかりで、それを切除しようとしなかったなら、そのような人は、「頭を頭巾で覆った」のです。また、らな弁舌にのぼせ、扇情的な雄弁を欲しいままにする人は、「すべての年齢の人々の頭に覆いをかぶせた」のです  それは、子どもたちや若者たちの頭だけではありません。老人たちの頭をもです。実際、「メシア[14]と偽預言者が、しるしや不思議なことを行って、できれば、選ばれた人たちをこうとする[15]」のと同じように、快楽だけを考え、聴衆を悪徳から回心させるよりも、喜ばせることだけをいつも求めている人たちは、「頭」の上に「覆い」を作っているのです。それも、子どもたちや若者たちの頭だけではありません。彼らは、できれば、老人たちや父親たちの「頭」の上に「覆い」を作り、ひいては、魂の鍛錬に従って霊的な老齢に至った人たち[16]をも欺こうとするのです。そして預言者(エゼキエル)は、預言にわる「あなたの民の」息子らについても(同じことを)言うことができました。預言者は、「覆いを編み」、「両手のすべてのの下に枕をい合わせる」すべての人が女であり、彼らのだれ一人として男に値しない者であるかのように[17]、「自分の心のくままに預言し」、(この箇所に記された)行いをする「あなたの民の娘らに[18]」と、言っているのです。実際、いつも聞こえの好い弁舌ばかりを作っている教師たちの魂や意思は、女性化しているのです。そして真実を言えば、聴衆の好意と望みに合わせてお説教をたれる人たちには、男子に値するものや、力強さに値するもの、神にふさわしいものは、何もありません。それで(預言者は)、「枕を縫い合わせる」すべての人たちを、息子らと呼ばずに、「娘たち」と言ったのです。言葉の特徴に注意してください。(エゼキエルは)「縫い合わせる」と言っていますが、「織り合わせる」とは言っていません。あなたは、あなたの主イエズスの「下着に、縫い合わされたところが何もなく、全体が織り合わされたものであった[19]」のを知らないのですか。あの娘たちは、言葉に言葉をずる賢く巧妙に「縫い合わせ」ますが、「織り合わせる」ことはありません。あの娘たちは「枕」を作りますが、その枕は、頭をもたせかける枕ではなく、「肘」を置くための物なのです。それは、彼女らの「手」が仕事に向かず、労苦をいとい、安逸と怠惰に浸り、欲望に役立つ振る舞いにしか向けられないからです。



[1] Cf.Ez.13,18.

[2] 省略

[3] 省略

[4] Ps.36,4.

[5] 省略

[6] Ps.35,9.

[7] 省略

[8] 省略

[9] 省略

[10] 省略

[11] Cf.Ez.13,17.

[12] Cf.Ez.13,17.

[13] 省略

[14] 省略

[15] Cf.Mc.13,22.

[16] 省略

[17] Cf.eg.Hom.Jos.9,9 (GCS 2, p.356, l.5).

[18] Ez.13,17.

[19] Cf.Jn.19,23.