しかし次にどのような言葉が続くのでしょうか。「そして私はいを引き裂く[1]」とあります。どのような物が引き裂かれると言うのでしょうか。「枕」ばかりでなく、「覆いが」引き裂かれると言っています。ですから(神のおん子であるみ言葉は)、頭が裸となり、「顔の覆いを取り除かれる[2]」ばかりでなく、頭の覆いも取り除かれることで信仰を受け入れ、教会の人となった人が絶えず祈りをすることができるように[3](覆いを)「引き裂く」のです。「私は、おまえたちの覆いを引き裂き、わが民をおまえたちの手から解放する[4]」。おまえたちは「枕」と「覆い」によって「もろもろの魂を駄目にする」としても、私は、それらを「引き裂き、わが民を解放する」。ところで神は、もろもろの欲望を斥ける厳しい回心をとおして、「民を解放します」。「そしてわが民はもはや、おまえたちの手に掛かり駄目にされることはない[5]」。聴衆を欺く「おまえたちの手のなかに」、もはやあの「枕」はない。「そしておまえたちは、私が主であることを知るようになる[6]」。もしも「枕」が破られず、もしも「私を覆いが引き裂か」なかったとすれば、おまえたちは、「私が主であることを知る」ことはなかろう。実際、快楽や怠惰や放埒は、「私が主である」と言われるおん者を認めさせてはくれないのです。「というのは、おまえたちは、義人たちを不正にも駄目にしているからだ[7]」。(キリストの来臨の)しるしを述べる箇所で、(メシアや偽預言者たちが)神に選ばれた人たちをもくだろう[8]」と言われているのと同じように、異端者たちは義人たちをもわすことがしばしば起こるのです。たしかに人間は、快楽を好みます。なぜなら、快楽がひとたび生じるや、それは、物静かであるとともに、放蕩であり、感覚を喜ばせ、私たちに、その快楽を味わうようにすからです。私たちは、救いをもたらすものであってもいものから逃げ出し、快楽に気を奪われ、労苦して仕事をしようとしなくなるのです  「快楽の友」と「神の友」に同時になることはできないとは知らずに。それで使徒は、極悪人たちについてこう言っているのです。「彼らは、快楽の友ではあっても、神の友ではない[9]」と。



[1] Ez.13,21.

[2] Cf.2 Co.3,18.

[3] 省略

[4] Ez.13,21.

[5] Ez.13,21.

[6] Ez.13,21.

[7] Ez.13,22.

[8] Cf.Mt.24,24.

[9] 2 Tm.3,4.