それで(主なる神は)「長老たち」について言われるのです  このようなことは私たちに無縁でありますように  これらの人たちは、各自のさまざまな思いを自分たちの心のなかに抱き、各自の不正の罰を自分たちの顔の前に置いた。いったい私は、彼らに応えようとも、応えることができるのか[1]」。彼らは私の言葉を知ろうとして、「預言者であるおまえのところに来た[2]」が、私がそうした者たちに応えるのは相応しいことなのか。「それゆえおまえは彼らに語り、彼らにこう告げなさい。『主なる神はこう言われる[3]、イスラエルの家に属する人間である人間、と』[4]」。私たち人間はみな、人間として生まれました。しかし私たち全員が「人間である人間」なのではありません。それは私が、『レビ記』のなかに書き記されている事柄に関してしばしば述べてきたとおりであります。『レビ記』にはこう記されています。「イスラエルの子らのうちの人間である人間や、おまえたちの間にいる寄留者たちのうちの人間である人間[5]」。あなた方は、「人間である人間」にならなければなりません。なぜならすべての人間が「人間」であるわけではないからです[6]。では私たちは、どうしてある人間たちが「人間」ではないのかを、聖書から示してみましょう。「人間は栄華のうちに置かれていても、理解しなかった。彼は愚かなにたとえられる。彼は獣に等しい[7]」。その人は、「人間である人間」ではなくて、「獣である人間」なのです。「まむしの世代よ。来るべき(神の)怒りから逃れるようにと、だれがあなた方に教えたのか[8]」。このような人は、「人間である人間」ではなく、蛇である人間なのです。「彼らは、雌馬に発情した雄馬。それぞれ自分の隣人の妻を慕っていなないた[9]」。この人も、「人間である人間」ではありません。彼は「馬」である人間なのです。ですから私たちは、私たちが人間ではなく、人間以外の何ものかであるという言葉を聞くに値する人間になることがないようにいたしましょう。実際、もしも私たちが善良で柔和であれば、私たちは人間という名称を二倍にすることができるのです。すなわち、私たちのうちには単に人間という名称があるのではなく、「人間である人間」という(二重の)名称があるようにすることができるのです。人間という名称を二重にするとはどういうことかを私たちが発見できるかどうか、お考えになってください。あの「外なる人間」が人間であっても、「内なる人間」が蛇であれば[10]、私たちにうちには、「人間である人間」はおりません。(単に)「人間」がいるだけです。しかし「内なる人間」が、創造主の似姿に従って粘り強く生きていれば、そのときその人は人間として生まれ、また彼は、そのような者として、「内なる人間としても外なる人間としても」、二重の意味で「人間である人間」となるのです。次に、「人間である人間」になるように招かれた人が、「自分の心のなかにさまざまな思いを抱き、自分の顔の前に罰を置いた上で、預言者のところに来た」なら、「主なる私は、その人の精神が囚われている事柄のなかで彼に答える[11]」と言われています。目下の言葉は、(神が)どのようにして個々の人に「答え」、またどのようにして、不適切な薬を与えるのではなく、それぞれの病気の性質に応じて適切なものを与えるかを、私たちに教えています。みなさんは、私たちの言うことによく注意してください。十人の医者には、十種の病気を持つ人が行くのです。(つまり十人十色なのです[12])(医者は)すべての病人を同じ方法で治療するのではありません。それぞれ患者をそれぞれ違った方法で治療するのです。たとえば(医者は、ある患者を)膏薬で治療します。ところが他の患者には別の薬を与え、幾人かには焼灼と呼ばれるものを加えます。またある人に苦い水薬を与え、またある人には甘い水薬を与えて(病を)和らげ、またある人の傷は濃厚な軟膏で取り除きます。これと同じように神のみ言葉も、人々の特質に応じてお語りになり、ご自分の知恵の諸神秘をでたらめにお与えになるのではないのです。このように言われています。「私は、その人の精神が囚われている事柄なかで彼に答える[13]」。すなわち私は、「その人の精神が囚われている事柄を癒し、彼がイスラエルの家を(正道から)逸らせないようにする[14]」と。みずから善い生活の模範を示さず、「な道を進む[15]」人はだれでも、自分の邪悪さによって然るべきでないことに逸れているかぎり、ある意味で神の民をも、「私によって斥けられた心のままに(正道を)外れ[16]」させているのです。神「によって斥けられた心のままに」これをさせている人は、「自分のさまざまな思いのなかで」それをさせているのです。それゆえ「その人たちの心が囚われている事柄のなかで彼らに応えられる」のです。そしてこう言われています。「おまえは、イスラエルの家にこう言え。主なる神は、こう言われる[17]。『おまえたちは悔い改め、おまえたちの欲望から離れよ』と[18]」。(先ほど神は)「その人たちの心が囚われている事柄のなかで」その人たちに語ると約束されましたから、今や罪人たちに対するように応えて言われます。「おまえたちは悔い改め、おまえたちの欲望から離れよ。そしておまえたちの顔を(それらの欲望から)背けよ」と。これは、次のようにすることだと、あなたには思われませんか。すなわち、然るべきではないことに「おまえたちの顔は向けられている」。そこで「おまえたちは、おまえたちの欲望から離れ[19]」、おまえたちの益となることにおまえたちの顔を「向けよ」ということではないでしょうか。「それゆえ、イスラエルの家に属する者と、イスラエルにやって来た改宗者たちとのなかで人間である人間はだれであれ、遠ざけられるであろう[20]」。「人間である人間」に造られた者であれ、みずからの進歩によって「人間である人間」になった者であれ、「人間である人間」が遠ざけられることはありうるのです。なぜなら、同じエゼキエルによりますと、擬人も「自分の正しい業から離れ、罪を犯す[21]」ときがあるからです。ですからもしもこのような人が、「自分の心のなかに自分のもろもろの思いを置き、自分の不正の罪を自分の顔の前に置いて、預言者のもとを訪れ、私について彼に尋ねる[22]」なら、「主である私は、彼が囚われている事柄のなかで彼に答え、私の顔をその人に向ける[23]」と主は言われるのです。最初に神が、どのようにして慈しみ深く「答えよう」と約束したか、そして次に、その人が最初の言葉によってまだされていないないのに(預言者のもとに)来たとき、どのようにして神は、「私はその人に私の顔を向け、彼を荒れ野に置く[24]」と言われたのかを、あなたはお考えください。実際、もしも彼が忠告の言葉に従わず、自分の過失を改めないなら、「私は彼を荒れ野に置いて滅ぼし、彼を私の民のなかから取り除く[25]」。全能の神よ、私たちをあなたの「民のなかから取り除か」ないでください。かえって私たちを、あなたの「民」のなかにめてください。けれども、放逐に値することを行う人が放逐され、神の「民から取り去られ」、民のなかから根を絶たれ、「サタンに引き渡される[26]」のは正当なことなのであります。そして現世ではたしかに、神の「民から」出た人は、悔い改めによって再び(民のなかへ)立ち返ることができます。しかし、(福音の)たとえ話のなかで、ある人が「婚礼の衣服」を身に付けないで来て、中に入り、「食卓の席に着いた」とき、家長は彼に言いました。「友よ、あなたはどうして婚礼の衣服を着けずにここに入ってきたのか」。そして「給仕たちに」命じて、「彼の手足を縛り、外の闇に放り出せ」と言いましたが[27]、このたとえ話で言われているように、「民のなかから」根を絶たれた人が、再び元の場所にも取るのは至難の業であることでしょう[28]。しかし私たちは根を絶たれないようにいたしましょう。かえってこの代においても来るべき予においても、私たちの主イエズス・キリストのなかに植えられて、彼のなかでれるほど豊かな実りを結ぶことにいたしましょう。栄光と力とが、私たちの主イエズス・キリストに、代々にありますように。アーメン[29]



[1] Ez.14,3.

[2] Cf.Ez.14,4.

[3] 省略

[4] Ez.14,4.

[5] Lv.17,8.

[6] 省略

[7] Ps.48 (49), 13.

[8] Mt.3,7.

[9] Jr.5,8.

[10] Cf.2 Co.4,16.

[11] Ez.14,4.

[12] 省略

[13] Ez.14,4.

[14] Cf. Ez.14,5.

[15] Cf. Lv.26,40.

[16] Cf. Ez.14,5.

[17] 省略

[18] Ez.14,6.

[19] Cf. Ez.14,6.

[20] Ez.14,7.

[21] Cf. Ez.3,20.

[22] Cf. Ez.14,7.

[23] Ez.14,7.8.

[24] Ez.14,8.

[25] Ez.14,8.

[26] Cf. 1 Cor.5,5.

[27] Cf. Mt.22.11-13.

[28] 省略

[29] Cf. 1 P.4,11.

 

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