「そして私は、その地から人間と家畜を取り除く[1]」と言われております。「地」と「人間」とは、それぞれ別物であります。(と言いますのは、ある人たちが考えておりますように、<聖書は>ここで、「地」を表す意味で「地」の住人たちの名を挙げているわけではないからです)。実際、(聖書が)「地」の住人たちを、「地」の意味で理解されるように望んでいるとすれば、「私は、その地から人間と家畜を取り除く[2]」と言うことは余計なことになるでしょう。たしかに「地」は、住人たちに満たされれば喜び、()述べられたことが起これば悲しむのです。「私は、その地から人間と家畜を取り除く[3]」と。この言葉に関して、もしも主が、皆さまの祈りの応えて意味を与えてくださり    しかも私たちが主の(与えてくださる)意味を受け入れることができるようになっているならば    私たちは、少しばかり論じてみることにいたしましょう[4]。追放に定められた母親の罰が自分の息子たちを奪われること、あるいは自分の息子たちが他の州に送られるのをしかと見ることであるのと同じように、私たちの母である「地[5]」も、「その地から人間と家畜が取り去られる[6]」とき、自分の罪のゆえに神によってある意味で鞭打たれるのです。そして「人間たち」がいるとき、いやそれ以上に、既に私たちが上で説明しましたように、神を熱心に求めて生活する最善の「人間たち」がいるとき、「地」は喜ぶのです。ですから、「地が罪を犯したら[7]」という言葉は、母が「罪を犯したら」、私はその母の家から息子を取り去る、それと同じようにここでも「私はその地から人間を取り去る」という意味で言われているとしましょう。たしかに「地」は、どう猛で残忍な獣に喜ぶのではなく、家畜に喜ぶのです。なぜなら「地」は、飼い慣れたおとなしい動物を愛するからです[8]



[1] Ez.14,13.

[2] Ez.14,13.

[3] Ez.14,13.

[4] 削除

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[6] Ez.14,13.

[7] Ez.14,13.

[8] 削除

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