そしてもろもろの脅かしの違いも注意深く考察してください。「飢饉」という最初の脅かしにおいて(主は)次のように言っております。「彼らだけが救われるだろう。ノアとダニエルとヨブ[1]」。他方、(主が)みずから「獣たちを送る[2]」と述べている第二の脅かしでは、「息子ら」と「娘ら」とが言及され、そして、「しかし彼らだけが救われるだろう、と主なる神は言われる[3]」と。この個所は、二つの仕方で理解されます。先ず私たちは第一の個所を、幾人かの人たちの愚かさゆえに、一般的な意味で説明してみましょう。彼らは、自分の魂の感覚が神の真理であると主張し[4]、やがて私たちの一人ひとりが各自の祈りによって、自分の望む人を地獄から救い出すにちがいないとしばしば言い、神に不正を帰しているのです。彼らには、「正しい人の正しさは正しい人に臨み、不正な人の不正は不正な人に臨む」こと、そして各人は「各自の罪のうちに死に」、「各自の正しさのうちに生きる[5]」ということがわからないのです。もしも私が正しく生きず、私の生まれの高貴さを、すなわち私の父がキリストにおいて輝かしく示した証と告白を尊ばなかったとすれば、殉教者である父は、私にとって何の役にも立たなくなるのです[6]「私たちは、姦淫によって生まれたのではない。私たちにはひとりの父、神がおられる[7]」と言うことや、「私たちの父はアブラハムだ[8]」と言うことは、ユダヤ人たちにとっては何の役にも立ちません。彼らが何を言おうとも、彼らが何を自分のものにしようとも、彼らがアブラハムの信仰を持っていなければ、彼らはむなしく誇っているだけなのです。またたしかに彼らは、「アブラハムの子ら[9]」だからといって、救われるわけでもないでしょう。ですから私たちは、ある人たちが正しい見解を抱いていないので、「ノアとダニエルとヨブは息子らと娘らを開放しない。彼らだけが救われる[10]」と言う文字の意味についてどうしても取り上げてみる必要があったのです。私たちの何人も、正しい父、聖なる母、貞潔な兄弟に頼ってはなりません。「その希望を自分自身と正しい生活とのうちに置いている人は幸せ[11]」です。しかし、聖なる人たちに信頼を置いている人たちに対して、私たちが次の例を挙げるのは不適切ではありません。こうあります。「人間に希望を置く人は呪われよ[12]」。また、「あなたがたは人間たちを信頼しようとしてはならない[13]」とあります。これに対して、「君主たちに信頼するよりも、主に信頼することは善いことである[14]」とあります。そしてもしも私たちが誰かに希望を置かなければならないとすれば、私たちはすべてのものを差し置いて、「主に」希望を置き、次のように言うことにしましょう。「彼らが私に対して陣を敷いても、私の心は恐れない[15]」と。この個所に関する意味は以上のようなものであるとして、さらに別の問題が私たちに生じています。聖書の真理が輝き渡るために、私たちはこの問題を注意深く検討しなければなりません。正しい人たちはたくさんいるのに、どうしていまの場合、「ノア」と「ダニエル」と「ヨブ」の「三人」の名前だけしか上げられていないのでしょうか。かつて私は、あるヘブライ人がこの個所を説明し、いま名前の上げられた人たちについて次のように言っていたのを聞いたことがあります[16]。すなわち、かららの各々は、喜びの時と悲しみの時そしてまた喜びの時という三つの時を見たと。洪水の前のノアをご覧ください。世界全体をご考察ください。そしてその後、全地の海難のとき、ノアだけがその「子供たち」と「動物たち」とともに箱船のなかで救われたのをご考察ください。どのようにしてノアが洪水の後、(船から)「出て」、いわば第二世界の創造者として「ブドウの木を植えた[17]」のかをご考察ください。正しい人とは、そのような人なのです。義人は、洪水の前に、すなわち終末の前に世界を見、洪水のときに、すなわち罪人たちの腐敗と破滅のときに――これは来るべき裁きの日に起こります――世界を見たのです。そしてその人は、すべての罪人たちの復活のときに再び世界を見ることでしょう。ある人は私にこう言うかもしれません。「私は、ノアについては、彼が三つの時を見たことを認めるとして、あなたはダニエルについてどう答えるのか」と。この人も捕囚以前には祖国の繁栄のなかで名声を博し、ついでバビロンに連れて行かれ、宦官にされました[18]。それは、彼の書物から明らかに理解できることです。そして彼はイスラエルの帰還を見たのです。ところで彼が捕囚以前にエルサレムにいて、捕囚の後宦官にされたことを証明するために、私たちは、ヒゼキヤに言われたことを引用することにしましょう。「彼らは、あなたの子供たちを取り、(バビロン)王の宮殿で宦官にする[19]」とあります。それから「七十年」後に、彼が「神に祈り」、捕囚の時が過ぎ、エルサレムに再び戻れることを願っているが見出されます[20]。私たちは、その祈りが彼自身の書物のなかに書き記されているのを知っています[21]。ただし私たちは、彼がどこで死んだのかを見出すことができませんけれども。とにかく彼は、三つの時を見ました。捕囚の前と捕囚の間そして捕囚後です。義人とはこういうものです。次に私たちは、ヨブもまた三つの時を見たかどうか見てみることにしましょう。たしかに彼は富豪でした。実際、彼には、「七千匹の羊と三千頭の駱駝、五百くびきの牛、膨大な数の家具、そして七人の息子と三人の娘[22]」がいたのです。やがて悪魔が、彼に対する権能を受け取りました。時が変えられていくところをご覧ください。子宝に恵まれていた父は、突然、寡男となりました。資産に富んでいた主人は、極端な貧困に陥れられました。さあ、これで二つ時になりました。その後、「主」が彼に現われ、「雲のなかから」彼に「語り」、ヨブはその書に書き記されている言葉で応えました[23]。このように、最初の時には、彼は神の賛美で飾られておりました。第二の時には、彼は試練に渡され、「足から頭までひどい潰瘍に襲われて」、悲しみと苦しみに耐えました[24]。そして最後に彼は、「羊一万四千匹、駱駝六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭」を持つにいたり、また彼に七人の息子と三人の娘が産まれたのです[25]」。正しい人たちは、三つの時を見ます。すなわち彼らは、現在の時と、神の裁きが行われる変化の時、そして死者たちの復活後の来るべき時、すなわちキリスト・イエ.ズスに結ばれた天での生活の永遠性を見るのです。キリスト・イエズスに、「栄光と力が代々にありますように。アーメン[26]」。



[1] Cf.Ez.14,14.

[2] Cf.Ez.14,15.

[3] Ez.14,16.

[4] 削除

[5] Cf.Ez.18,20.24.22.

[6] 削除

[7] Jn.8,41.

[8] Jn.8,39.

[9] Cf.Jn.8,39.

[10] Ez.14,18.14.

[11] Cf.Ps.33,(34),9.

[12] Jr.17,5.

[13] Cf.Ps.145 (146),3 + 117 (118),8.

[14] Cf.Ps.117 (118),8 + 145 (146),3.

[15] Ps.26 (27),3.

[16] このヘブライ人の名は知られていない。

[17] Cf.Gn.7,13sq; 8,18; 9,20.

[18] Cf.Dn.1,3sq.

[19] Cf.Is.39,7.

[20] Cf.Dn.9,2sq.

[21] Cf.Dn.9,4sq.

[22] Cf.Jb.1,3.2.

[23] Cf.Jb.38,1.

[24] Cf.Jb.2,7.

[25] Cf.Jb.42,12.13.

[26] 1 P.4,11.

 

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