第5講話

「四つの最悪の裁き、すなわち、剣、飢饉、悪い獣そして疫病が罪深い地に送られる」から、「人の子よ、ぶどうの木は何になるのか」まで

 

 「飢饉が、罪深い地」のゆえに送られることについて、私たちの能力の範囲内で論じられました[1]。そして「飢饉」の後、私たちは、神が「罪深い地の上にお送りになる最悪の獣たち[2]」について語りました。すなわち私たちは、初めに、四つの裁きを取り上げましたが、そのうりの二つ、すなわち「剣[3]」と「死[4]」についての裁きがまだ残っております。最初の裁きでは、「息子ら」と「娘ら」の名前は挙げられていませんでしたが、第二の裁きと、いま私たちが説明しようとする第三の裁きでは、「息子ら」と「娘ら」の名前が結び付けられています。第三の裁きとは、その一撃にふさわしいことを行なった者たちが陥る「剣」であります。では、この刀、すなわち「剣」とはどのようなものでしょうか。私たちは、この剣が私たちの「地の上に」送られるのではないか、すなわち私たちが比喩的に解説した「地の上に」送られるのではないか、そして私たちはこの剣を通って、しかも罰として両刃の剣のようなものを通って行かねばならないのではと、恐れなければなりません。実際、この剣の本性は、剣の加えられる人を切り裂くことです。しかしこの剣の刃の鋭さに触れること自体が罰であるとすれば、この剣によって罰せられるべき人は二重に苦しむことになるでしょう。実際、この剣の働きは、剣の加えられるものを分け切断することなのです。しかしこの剣の刃の鋭さに触れること自体が苦痛をもたらすものだとすれば、この剣によって罰せられる人は二重に苦しめられることになるでしょう。たしかに聖書にはこう書かれております。「(神は)炎の剣とケルビムに、生命の木の道を守るように命じた[5]」と。鋭くて熱く燃え盛る剣が体に加えられますと、それが焼却と切断という二重の苦しみをもたらすように、いま私たちが目下の剣の説明のために取り上げた、楽園の「守護のために立てられた」と述べられている「剣」も、焼却し切断するという二重の苦しみをもたらすのです。目下の個所で神が私たちの理解を照らしてくださるために必要な個所を私たちは取り上げるつもりですので、(ここで私が)例を取り上げるのをお許しください。医術に熱心な人たちは、身体のある種の治療には切断を加えるだけではなく、焼却を加えることも必要であると言っています[6]。たとえば、悪性の癌によって壊疽に苦しめられている人たちに、火によって癌の根を除去し、切除によって腐った肉を切除して医薬を投与するための道を開くために、熱く燃え盛る刃物の刃や何らかの鋭利極まりないものを加えられるのです。私たちの内の誰がいわば癌に似た罪を持っていて、その結果、単なる鋭い鉄による切断や単なる火による焼却では彼には十分でなく、そのどちらもが加えられて焼かれ切断されなければならないと、あなたはお考えになりますか。あなたは、救い主が二つの個所で、「火」と「鉄」のことを指して言っている言葉をお聞きください。先ず一つの個所で救い主はこう言われております。「私は地上に平和を送るために来たのではない。私は剣を送るために来たのである[7]」と。また、もう一つの個所では、「私は地上に火を送るために来たのである。それがもう燃えていればいいのに[8]」と言われております。ですから救い主は、「剣」と「火」の二つをもたらし、あなたに「剣」と「火」の洗礼を授けるのです。実際、救い主は、聖霊による洗礼によって癒されなかった人たちに、「火」の洗礼を授けるのです。なぜならこれらの人たちは、聖霊の清めによって浄化されなかったからです。数々の神的な神秘は言語を絶したもので、神によってのみ知られます。しかしそれらの神秘は、多種多様な責め苦のためにあるのではなく、諸々の恵みの授与に成り立っているのです。たしかに医者は、みずからの技術に教えられるままに、治療している患者たちを理性的に切断し焼却し、もっとも苦い薬を調合した飲み薬を与え、症状の求めるままにその他の多くのことをします。宇宙万物の主である神もまた、何らかの理性的な知恵なしに、またご自分の威厳にふさわしい配慮なしに、罰だけを罪人たちに加えるのではありません。また、(ある人たちが)考えるように神は、ただ苦しめるためにだけ、責め苦を科しているのでもありません。かえって神は、父が私たちみんなの傷を知っているように、どのような理由から潰瘍が生まれ、不幸な魂のあらゆる腐敗はどのような発端から生じるのか、様々な種類の苦しみはどのような罪から将来するのかをご存知なのです。また神は、罪の形と様式と数をご存知ですし、誰が一度罪を犯し、誰が二度三度と罪を犯すのか、誰が同じ過失にしばしば陥るのか、また誰が様々な種類の過失の一つひとつに代わる代わる陥るのかをご存知なのです。神はこれらすべてのことを私たちが、神の知恵に従って、そして次のように書かれている言葉に従って探求するように望んでおります。こう書かれています。「神は心と腰を探る[9]」。そして私たちが神によって加えられる様々な責め苦を、神にふさわしく神の摂理に一致するものとして理解し、ただ私たちを苦しめるためにだけあるのではないと理解するように望んでおられるのです。「たしかに神は、すべてのものを存在するように造られたのです。世界のすべての世代の人々が救われるようにされたのです。そしてそれらを滅ぼす医薬などないのです[10]」。しかし私たちは、神の望まれたことを蔑ろにして行ないませんでしたので、それを望まれた方も、それを私たちの内で実行に移されなかったのです。議論は、「大地に加えられる」もろもろの罪の性質についていくらか述べるように、私たちを強制いたしました。



[1] Ez.14,12.

[2] Ez.14,15.

[3] Ez.14,17.

[4] Ez.14,19.

[5] Cf.Gn. 3, 24.

[6] Cf.eg.Hom.Jr.12,5; de Princ.II, 10, 5.

[7] Mt.10,34.

[8] Lc.12,49.

[9] Ps.7,10.

[10] Cf.Sg.2,14.

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