さらに私たちは、聖書の続きも考察してみましょう。預言者が喩話として(神からのみ言葉を)聞きましたので、私たちは、証言の順序それ自体を脇において、聞き手を聖書に向かわせながら、意味だけを説明しなければなりません[1]。「ぶどうの木」は、その実においては、「すべての木々」に優って、取り分け森の中で実を結ぶ木に比べてみますと、尊ばれるものです。それと同じように「ぶどうの木」は、他の働きの点では「すべての木」よりも役に立たないものです[2](他の木々は)何らかの器になることもできますに、さまざまな必需品の用に応えることもできます。しかしぶどうの枝からは、何らかの器を作ることはできませんし、何らかの有益なものに役立てることもできません。そればかりか、有益な杭にもなりません。ですから神のみ言葉は次のように言うのです。「ぶどうの枝」が、もしも実を結ぶなら、他の木々に優って尊ばれるのと同様に、もしもそれが秀でたものを持たないなら、すべての木々よりも劣っていると判断されるだろうと。したがってこれと同じように、神のみ言葉が染み込んだ人たちは、すべての人よりも尊ばれ、もしも救いの実りの房を結ぶなら、ぶどうの威厳を与えられるのです。このぶどうの威厳について(聖書には)こう書かれております。「私はあなたを、実り豊でまったく混じりけのないぶどうの園として植えた[3]」。また別のところでは、「主のぶどう園は、イスラエルの家[4]」。さらに「あなたはあなたのぶどう園をエジプトから運び出された[5]」などがあります。他方、もしも彼らが実を結ばなくなり、「どうしてお前は、苦いぶどうの木に変わってしまったのか[6]」と神によって言われるほどになるならば、彼らはそのとき、粗末なものであるがそれなりのみを結ぶ「木々」よりもはるかに卑しいものであることが明らかにされるでしょう。実際、森の「木々」が実を結ばぬぶどうの木に優っているのと同じように、(ぶどうの木)よりも卑しい「木々」から、神の知恵の何らかの摂理に従って、「家に」必要な何らかの物が作られるのです。しかしあなたは、私たちが聖書から離れて、今言ったことが将来起こると主張したのだと考えて思い煩わないでください。なぜなら使徒も同様に、人間の暮らしのなかに見出される「器」を比喩として取り上げて次のように言っています。「しかし大きな家には、金や銀の器だけがあるのではありません。そこには、木や粘土で出来た器もあります」――「木の器」と言っていることにご注意ください――「そしてある物は、名誉のために、他の物は恥辱のために[7]」。使徒が「大きな家の中にある」と述べたそれらの「器」は、「ぶどうの木」から作られた物もでなければ、「ぶどうの蔓」から作られた物でもありません。それは、森のなかで実を結んだより劣悪な品位の「木々」から作られた物なのです。ですから父の「大きな家」のなかに何らかの「劣悪な木々」が見出され、私の「ぶどうの木の枝」が「家のなかで」無益なものとなって「火のなかに投げ込まれる」とすれば、それは何と大きな災いでしょう。それは何と大きな恥辱でしょうか。たしかに(聖書には)次のように書かれています。「年毎に切り取られたその枝は、火によって焼き尽くされる[8]」と。以上が『エゼキエル書』で述べられていることです。ところで救い主は、『福音』のなかでこの喩の意味に触れて次のように言っています。「私はぶどうの木である。あなたがたはその枝、私の父は、栽培者である。私の内に留まって実を結ぶすべての枝を、私の父は剪定し、それがもっと大きな実を結ぶようにする。しかし私の内に留まっても実を結ばない枝を、私の父は切り取り、それを火のなかに入れる[9]」と。あなたはこれらの二つの言葉の類似性にお気づきですか。あなたは、どのようにして「おん父が切り取り、そして火に投げ入れる」のかお分かりですか。私たち愚か者は、聖書を無視してもいいかのように、私たちに畏れを引き起こすことを学ぼうとしないで、不埒な耳の欲望を掻き立てるものを聞こうと願い、私たちを滅ぼし欺くことを喜んで聞きます。ある人が隣人に次のように言います。神は私たちのために、私たちの罪を見過ごしてくださる。私たちが互いに約束しあって然々の秘跡に与れば、神は食卓を設けてくださる、と。たしかに神は慈しみ深く、すべての人の罪を赦してくださいますから、私たちは座して、心を痛めながら次のように言わなければなりません。昨日私たちが罪を犯したなら、今日私たちは痛悔をしなければならないと。ところが――それ自体生き物である――この「枝」が、神は全能な方であり、慈しみ深い耕作者であるから、私を「切り取り、火の中に置く」ことはないと言うなら、この「耕作者」は次のようにお応えになるでしょう。すなわち、もしも「枝」がむなしく「ぶどうの木」に留まるものであれば、いったいそれは(そこに)残ることができるのか。もしもそれがそのまま残されるなら、それは「ぶどうの木」の邪魔をして、乾いた「枝」のゆえに若くて実り豊かな「枝」を成長させなくするのではないかと。ちょうど慈しみ深い耕作者が乾いた物を「切り取り」切断し、実を結ばなくなった枝を「火」の餌食に「渡す」のがふさわしいように、慈しみ深い神が実を結ばなくなった「枝」を(他の)すべての枝から切り離し、それを「火」に渡して滅ぼすこと」はふさわしいことなのです。しかし私たちは、みずからを軽んじて、欺きまた欺かれ、誤謬から回心するよりも、きわめて多くの人たちとともに誤謬に陥ることを望んでしまいます。むしろ私たちは、建徳を促し神の恐れを増強させ、悔い改めを促進し、罪の告白へと導き、どのようにしたら神に喜ばれるかを昼も夜も私たちに考えさせることを捜し求めるべきなのです。こうして私たちは、キリスト・イエズスという「真のぶどうの木[10]」に結ばれて実り豊かな「枝」となり、彼の根にしっかりと根付くものにならなければならないのです。「キリスト・イエズスに、栄光と力が代々にありますように。アーメン[11]」。



[1] 省略

[2] Cf.Ez.15,1s.

[3] Jr.2,21.

[4] Cf.Jr.5,7.

[5] Ps.79 (80),9.

[6] Jr.2,21.

[7] 2 Tm.2,20.

[8] Cf.Ez.15,4.

[9] Jn.15,1.2.5.6.

[10] Jn.15,1.

[11] Cf. 1 P.4,11.

 

 

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