そういうわけでエゼキエルは、「エルサレムにそのもろもろの不正を示し」知らせました。そして彼はこう言っています。「主はこう言われる。お前の根とお前の生まれは、カナンの地。お前の父はアモリ人。お前の母はヘト人である[1]」。ところでかずかずの都市の内で、「神の都」と同じくらい高められ、「高尚なものを味わった」ものがあるでしょうか[2]。しかし神に最も近い都、「神の都」として尊大になったこの都は、罪を犯しました。そして聖霊によって、汚れたもの縁のないものとして非難されたのです。すなわちその「父」はもはや神ではなく、「アモリ人」なのです。エルサレムが罪を犯していなかったときは、その「父」は聖霊でした。そしてそれが罪を犯したとき、その「母」は「ヘト人」となったのです[3]。それが罪を犯していなかったとき、それは、アブラハムとイサクとヤコブを「根」として持っていました。そしてそれが罪を犯したとき、その「根」は「カナンの(地のもの)」となったのです。私はしばしば、罪人の「長老」にダニエルが言った言葉に驚いています[4]。ダニエルは、この「長老」にその罪のゆえに次のような名を与えているのです。彼は言っています。「ユダの子孫ではなくカナンの子孫[5]」と。ダニエルは偉大でした。彼は、罪を犯した「長老」を断固として「カナンの子孫」と呼んで、「ユダの子孫」とは呼んでいません。しかし彼に比べてもっと偉大なのはエゼキエルです。彼は、一人の「長老」や二人の人間の出生の卑しさを突いたのではありませんでした。彼は(エルサレムについて)、「お前の根とお前の生まれは、カナンの地。お前の父はアモリ人。お前の母はヘト人である[6]」と言ったのです。エルサレムが多くの罪を犯したので、預言者(エゼキエル)はエルサレムを非難して、一つや二つのなではなく、三つの名でエルサレムを名指したのです。『創世記』では七つの民が、イスラエルの子らに渡された一つの地の中で、神によって枚挙されています。これらの民はたしかに七つです。(神は)、「カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、レファイム人、ギルガシ人、エブス人たちの地の中に[7]」と言っています。これら七つの民を集めて、それらを通して罪深いエルサレムの出生の卑しさを責めるのは不可能です。しかし預言者(エゼキエル)はこれをしました。では、何をしたのでしょうか。彼は、七つの民の中から「アモリ人」と「カナン人」を選び出しました。そして彼は、罪深いエルサレムがその「根」と「出生」の点で「カナン人」と関係がある、特に「父」の点で「カナン人」に、そして「母」の点で「ヘト人」に関係があると言ったのです。これほど大きくこれほど驚くべき約束が約束されていると記されたエルサレムについてこれだけのことが言われるとすれば、私が罪を犯した場合、この哀れな私には何が起こるでしょうか。私の「父」は誰になるのでしょう。また私の「母」は誰なのでしょう。これほど偉大な「エルサレムの根と生まれは、カナン人の地にあり」、その「父はアモリ人、母はヘト人」と呼ばれています[8]。ではこの私、キリスト・イエズスを信じ、これほど偉大な師に我が身を委ねているこの私がもしも罪を犯したなら、私の「父」は誰になるのでしょう。それは、「アモリ人」ではありません。むしろもっと悪い「父」です。ではそれは誰なのでしょう。「罪を犯す者はみな、悪魔から生まれたのである[9]」。またさらに「あなたがたは悪魔の父から出た[10]」とあります。ですからもしもエルサレムが「カナンの根とカナンの地の生まれ」に溯って語られるなら、私たちにたいしては何が言われるのでしょうか。私たちにも、私たちをもろもろの罪の中に生んだかずかずの「父たち」が見出されるでしょう。実際、もしも私が善良で善き行いにしかと立つなら、イエズスは私に言います。「子よ、あなたの罪は赦された[11]」と言います。そしてイエズスの弟子であるパウロは、「私は、キリスト・イエズスにおいて、福音をとおしてあなたがたを生みました[12]」と、私に言います。これと同じようにもしも私が罪人になったら、私を「もろもろの罪の中に」生んだ「悪魔」は、父なる神が救い主に言われた言葉を自分のものにして、私に言うのです。「お前は私の子、私は今日お前を生んだ[13]」と。そしてこの他に、私が向かうたくさんの「父たち」が私にはいるでしょう。だれしもがそれぞれの「父たち」のところに向かうのです。もしも誰かがアブラハムから出た者なら、その人には次のような言葉が言われるでしょう。「しかしお前は善き齢をまっとうして、お前の父たちのところに平和に進む[14]」と。しかしもしも誰かが、この代を平和に去らず、罪人たちの戦と悪しき齢の内に、「悪しき日々に長けた者[15]」としてこの世を去るなら、その人に対しては次のように言われるのです。しかしお前は、悪しき「齢」をまっとうして、戦の内にお前の「父たち」のところに行く、と。私たちは、何を為すべきかを他のさまざまの名称のもとに神から学ぶのです。



[1] Ez.16,3.

[2] Cf.Rm.11,20;He.12,22.

[3] 省略

[4] Cf. Comm.Rm.IV 2.

[5] Dan.13,56(=Susann.56).

[6] Ez.16,3.

[7] Cf.Gn.15,20.

[8] Ez.16,3.

[9] 1 Jn.3,8.

[10] Jn.8,44.

[11] Mt.9,2.

[12] 1 Co.4,15.

[13] Ps.2,7.

[14] Cf.Gn.15,15.

[15] Cf.Dn.13,52 = Susann.13,52.

 

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