「お前は、救いのために水で洗われなかった[1]」。私たちはエルサレムの()が何であるかを見てみましょう、私たちの間でもそれが繰り返されないようにするために。たとえば次のように言われたとしましょう。ある婦人がすでに「(水で)洗われた」とします。しかし私たちも、「救いのために」と(神が)付け加えた言葉のゆえに恐れを抱くために、彼女は「救いのために」(水で洗われた)のかと問われるでしょう。すべての人が「救いのために(水で)洗われる」のではありません[2]。キリストの名において洗礼の恵みを受けた私たちは、「(水で)洗われました」。しかし私は、誰が「救いのために(水で)洗われた」か知りません。(魔術師)シモンは「(水で)洗われました。そして「洗礼の後も引き続いてフィリポのそばを離れませんでした[3]」。しかし彼は「救いのために(水で)洗われ」なかったので、「聖霊において」彼に次のように言った人によって断罪されました。「お前の金は、お前とともに滅びよ[4]」と。「(水で)洗われる」人が「救いのために(水で)洗われる」ことは、とてつもなく難しいことなのです。信仰入門講座の皆さん、注意して、いま言われたことに耳を傾けてださい。皆さんは、信仰入門講座の受講生で、まだ洗礼を受けていないうちに、よく準備をしておいてください。そして(水の)洗いに臨み、「救いのために(水で)洗われてください」。しかし「(水で)洗われた」ものの、「救いのため」ではなかった人のように「洗われ」てはなりません。その人は、水を受けたものの、「聖霊を受けて」いないのです[5]。「救いのために(水で)洗われる」人は、水とともに「聖霊を受ける」のです。(魔術師)シモンは「救いのために(水で)洗われ」なかったので、水を受けただけで、「聖霊を受け」ませんでした。彼は、「霊の賜物を金銭と引き換えにできると考えていた[6]」のです。「彼は、救いのために水で洗われませんでした[7]」。信じているように見える罪深いすべての魂には、いま私たちがエルサレムに対して語られるのを読んだ言葉が言われます。さて、私たちは、より高次の意味に上ったり、私たしの力や才能を超える事柄を探求しないようにいたしました。



[1] Ez.16,4.

[2] 省略

[3] Cf.Ac.8,13.

[4] Ac.8,20.

[5] Ac.8,16.

[6] Ac.8,20.

[7] Ez.16,4.

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