10 罪の目録の後で、(神は)罪深いエルサレムに語ります。「お前のために、何を定めようかと、主なる神は言われる。お前は、厚かましい淫婦が行なうこれらの業をことごとくするとは[1]」。言論によって少しずつ上昇してまいりましょう。なぜなら姦淫について語ることは、必ずしも常に有益であるとは限らないからです。そして姦淫をやめる励ましの言葉を必要とする人が教会にいるようなことがないようにしましょう。もしも誰かが、「お前は姦淫を犯してはならない[2]」という言葉と、「神の神殿を汚したならば、神をその者を滅ぼす[3]」という言葉とを聞く必要があるならば、その人は、使徒が次のように言っている人たちと似ています。使徒はこう言っています。「律法は、正しい人に対して定められたのではなく、不正な者たち、不従順な者たち、不敬虔な者たち、そして罪人たちに対して定められたのです[4]」と。ですから、「律法が正しい人に対して定められたのではなくて、不正な人たち、不従順な人たちに対して定められている」のと同じように、姦淫から遠ざかるように戒める教えは、貞潔な人に対して「定められたのではなく、不正な人たち」、姦淫を犯す人たち、そして不従順な人たちに対して定められたのです。私たちは、姦淫から学んでいると言う必要がありません。むしろ私たちは、キリストの初歩の教えからより完全なものに身を伸ばさねばなりません。「実際、あなたがたは、今ごろは既に教師になっていなければならないのに、神のみ言葉の初歩をもう一度教えられる必要があります。あなたがたは、固い食物ではなく、乳を必要とする人になってしまいました[5]」。「あなたは姦淫をしてはならない、姦通してはならない、盗んではならない[6]」と戒めるすべての言葉は、「固い食物」ではなく、いわば「乳」として「幼子たちに」与えられるものなのです[7]。競技者たちの食物は、全能の神や、聖書の中に隠され、それとなく暗示された神の諸々の神秘からできあがっています。パウロがコリントの人々にどのように語っているかをお考え下さい。「私はあなたがたに乳を飲ませて、食物を与えませんでした。まだあなたがたは食べることができなかったからです。しかしあなたがたは今でもできません[8]」。そして彼らは、未だに「乳を必要としていた」ので、「子供たち」が習うのを常とするものを学ぶのです。「女に触れないことは、男にとってよいことです。しかし姦淫のゆえに[9]」等々。更に彼らは、「偶像の供え物を食べ[10]」ないように教えられています。これらすべての教えは、キリストにおいて今でも「幼い子どもたちの乳」なのです。しかしパウロがエフェソの人たちに手紙を書くときには、「固い食物」を与えています。確かにエフェソでは、「姦淫」の話は聞かれません。エフェソでは偶像崇拝も、「偶像の供え物」の飲食も噂されていません。以上のことから私たちは、「固い食物」が何であるかということ、そして「理にかなった偽りのない乳[11]」が道徳的な戒めであり、「固い食物」が神秘的な理解であることを教えられます。私たちが初歩的なものを過ぎ越して、より完全なものに馳せ向かうことは、幸いなことです。「乳」が道徳的な戒めであることは、死とが「乳」について幾らか述べた上で、次のように付け加えながら教えていることである。「私たちは、死をもたらす行いからの悔い改めの基礎を再び言い出さないようにしましょう[12]」。未だに「乳を飲まされている」人たちは皆、そのような人たちなのです。しかし完全な人は、別の戒めを必要としています。以上述べましたことは、話の本筋から離れたものとお見なしください。私は、言葉によって(より完全な意味へと)上昇し、別の姦淫からまた別の姦淫へにすぐさま話を移して、今度はそれを説明するということのないようにしたからです。さて、エルサレムに対して次のように言われています。「そしてお前は、お前の娘らの間で三重の姦淫を犯した[13]」。「エルサレムがその娘らの間で三重の姦淫を犯した」と言っているのは、どういうことなのでしょうか。私たちは、神が私たちのためにこの箇所の曖昧さを解消してくださるよう、神の助けを必要としています。ちょうどモーセが神に耳を傾け、次に神から聞いたことを民に告げたように[14]、私たちも、私たちの内で諸々の神秘を語る聖霊を必要としています。このようにすれば、私たちは、あなたがたの祈りに支えられながら(神に)耳を傾け、今度は私たちが、(神に)聞いたことを民に知らせることができるようになるのです。では、「お前はお前の娘らの中で三重の姦淫を犯した」とは、どういうことなのでしょうか[15]。もしもあなたが、肉と魂と霊の姦淫を理解し、誰かがこれらの点で「姦淫を犯す」のをご覧になるなら、あなたは、「三重の罪を犯すエルサレム」のことがおわかりになるでしょう。これに対して、「三重の」貞潔を守る人は、使徒によって、次の言葉を聞くに相応しいと見なされるのです[16]。すなわち「平和の神があなたがたをあらゆる点で聖としてくださり、あなたがたの霊と魂と身体を、私たちの主イエス・キリストの再臨のときに非の打ち所のないものとして保ってくださいますように[17]」と。私たちの主・イエスに、「栄光と支配が代々にありますように。アーメン[18]」。



[1] Ez.16,30.

[2] Ex.20,13.

[3] 1 Co.3,17.

[4] 1 Tm.1,9.

[5] He.5,12.

[6] Cf.Rm.13,9.

[7] Cf.He.5,12.

[8] 1 Co.3,2.

[9] 1 Co.7,1.2.

[10] 1 Co.8,1s;10,18.

[11] 1 P.2,2.

[12] He.6,1.

[13] Ez.16,30.

[14] Cf. Ex.25,1s;35,1s.

[15] Ez.16,30.

[16] 省略

[17] 1 Th.5,23.

[18] 1 P.4,11.

 

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