次に、「そしてお前は私の油と私の香をそれらの(偶像の)前に置いた[1]」という言葉が続きます。私たちは聖書に教えられて、「聖なる人たちの祈りは香である」と申します。確かに聖書は、「しかし聖なる人たちの諸々の祈りは香である[2]」と言っています。ですからもしも私たちが、祈りを教えられて、その祈りを神に、すなわち律法と預言者たちの神、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神[3]」、しかもイエズス・キリストの父に捧げなければならないのに、自分勝手な思いなしに祈りを捧げ、その限りで神の香を諸々の偶像に供えるなら、私たちは現在の個所で言われていることを行なうことになるのです。「お前は私の油と私の香をそれらの(偶像の)前に置いた[4]」と。ともかくこれが「香」についての理解だということにしましょう。では、「油」については私たちはどう答えるべきでしょうか。この「油」は、聖なる人に塗られる油であり、キリストの油、聖なる教えの油なのです。ですからある人が、聖なる人が享受するこの油、すなわち父と子と聖霊の名においてどのようにして洗礼が授けられなければならないかを教える聖書を受け取り、しかもそれをいささか変えて誰かに塗り、「あなたはもう信仰入門者ではありません。あなたは『第二誕生の洗い[5]』を得ました」と言ったとすれば、そのような人は神の「油と香」を受けて、それを「諸々の偶像の前に置く」のです。「そして私がお前に与えた私のパン、同じく私がお前に食べさせた小麦と蜜と油[6]」。ご覧ください、私たちの「パン」とは、聖書の中で最も純粋な「小麦粉」であり、「蜜」とは、預言者という諸々の蜂によってできたものです。神はこれらすべてのものを私たちにお与えになり、私たちに預言者たちの「パン」と律法の「小麦粉」、そして福音の「蜜」を食べさせてくださったのです。そしてこれらを「食べた」私たちは、それらを偶像に与えてしまいました[7]。実際、私たちが偽りの教えを弁護するために、「それは預言の中に書き記されている、モーセがそれを明かししている、使徒が言っている」と言うなら、私たちは、真理の「パン」を受け取りながら、それらを他ならぬ「私たち自身が捏造した作り事」に捧げることになるのです。マルキオンは、「偶像」を作り、それに聖書と言う「パン」を供えました。バレンチノス、バシリデス、そしてすべての異端者たちも同様にしました。「そしてお前はそれを、美味の香りとしてそれらの(偶像の)前に置いた[8]」。当然、神が私たちに与えてくださったものは、この上なく甘美な香りです。聖書の力に反して行動したり理解したりする者は、この上なく甘美な香りを「偶像の前に置く」のです。



[1] Ez.16,18.

[2] Ap.5,8.

[3] Cf.Mt.22,32.

[4] Ez.16,18.

[5] Cf.Tt.3,5.

[6] Ez.16,19.

[7] 省略

[8] Ez.16,19.

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