「そしてこんなことが起こったと、神なる主は言われる。お前は、自分が産んだ息子らと娘らを取って屠り、彼らを火に焼いた[1]」。罪深いエルサレムが「息子らと娘ら」を産んだとき、生まれてきた者たちの終わりは、殺戮です。最悪な者たちの終わりは、救いではないのです。それで聖書にはこう書かれているのです。「お前は彼らを屠り、火に焼いた。お前は姦淫に飽き足らず、私の子どもらを殺し、(死に)与えてしまった[2]」と。神は、「お前はお前の息子らを取った[3]」とはっきり言い、そして意味深く、「お前は私の息子らを殺害してしまった[4]」と付け加えています。実際、異端者たちの教えの中に生まれ、そこでみずからの信仰の原理を受け取った人は皆、姦淫を犯した罪深いエルサレムの「息子ら」なのです。また、教会の中に生まれたのに、後になって異端の誤りに欺かれた人は、神の息子でありながら、罪深いエルサレムによって捕らえられ、その「偶像」に生け贄として捧げられたのです[5]。「これは、お前のすべての姦淫と忌まわしいことを超えている[6]」。教会の「息子らを取り」、「偶像のためにころ殺す」こと、「それはお前のあらゆる罪を超えている」のです。「そしてお前は、お前が裸で恥辱の中でもがいていたときのお前の幼少の日を思い出さなかった[7]」。(主は)エルサレムの裸と恥辱について前置きされました。ですから(エルサレムは)どのようにして「私が私の翼をお前に広げ」、「お前をお前の血の中から取り、お前を洗い清めた[8]」のかを、その不正の中で思い起こさなければならなかったのです。お前は、これらのすべてを忘れて、(忌まわしいことを)行なって、「裸になって恥辱の中をもがき」、お前の血に染まっているのです。



[1] Ez.16,19.20.

[2] Ez.16,20.21.

[3] Ez.16,20.

[4] Ez.16,21.

[5] 省略

[6] Ez.16,22.

[7] Ez.16,22.

[8] Ez.16,8.9.

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