第8講話

 

「わたしは、どんな物の上にお前心を据えようかと、主なる神は言われる。なぜならお前は、厚かましい娼婦が行なうこれらすべての業をしているからだ」から、「お前は、お前を愛するすべての者たちに報酬を与えた」まで

 

 最初に朗読されたところについては、既に私たちは、説明いたしました。今日は、次のように書かれているとこらから始めることにいたしましょう。こう書かれています。「私は、どんな物の上にお前の心を据えようかと、主なる神は言われる。なぜならお前は、厚かましい娼婦が行なうこれらすべての業を行い、お前の娘らの中で三重の姦淫を犯したからだ」。この箇所までは、既に私たちは述べました。これに続く箇所は次のようになっています。「お前は、すべての通りの頭に汚らわしい家を建てた。そしてお前は、すべての広場に台座を作った。お前は、報酬を集める娼婦にはならなかった。お前のように姦淫する女は、自分の男から報酬を受け取り、その報酬を自分のすべての愛人たちに与えた。お前も、報酬をお前のすべての愛人たちに与えた。そしてお前は、彼らが姦淫をしに戻ってもらうために、彼らを尊んだ[1]」。人間は、人間を作り変えることができます。悪い人は、人間を悪い人間に、良い人は人間を良い人間に変えることができます。実際、「最悪の話は、良い品行を駄目にする[2]」のです。疑いも泣く、話し手の言葉は聴き手をより悪い状態に向かうように掻き立てます。なぜなら異端者の話は、その聴き手を異端の邪悪に導くからです。他方で、話し手が私たちをより良い状態に進ませるように有益なことを語るとすれば、彼の生活がその言葉と一致しているなら、彼は、聴き手を良い状態に導きます。末席に立つ私たちは、貞潔について教える言葉を聞くときには、私たちは、貞潔に基づいて身を立てるように努力します。私たち自身が純潔について話をするときには、今度は私たちみずからが、聴き手の人たちを貞潔にします。私たちが正義について説教をするときは、私たちは、(聴き手の人たちを)正義へと駆り立てます。信仰について説教するときには、私たちが主において神の威厳に相応しく従うために、私たちは、信仰を染み込ませます。ですから私たち悪に満ちた人間が、もしも善人を心がけるなら、聴き手の人の心を良くしますが、もしも私たちが悪い振る舞いをするなら、聴き手の人の心を悪くします。そうであれば、あなたは、神には、誰かを良い状態にする権能や、あるいは誰かをみ捨てて、その人が最悪の状態に置かれる機会を与える権能がないとお考えなのですか。目下の(預言の)言葉によれば、哀れなエルサレムは大きな罪を犯しました。神は、ご自分の預言者たちを通してエルサレムをより良い状態に導こうとしばしば望みました。しかしエルサレムは、諸々の勧告を聞こうとはせず、神の掟を受け入れようとはしませんでした。そこで神は、思い惑い、ご自分が何をすべきか分からないと自問しています。「お前の心をどのようにしようかと、主なる神は言われる[3]」。私は何をしようか。「お前をどのようにしようか」。お前は、罪の多くのくびきを課せられ、お前の罪は、お前が私の言葉によって立ち直れないほど、お前の生活を歪めてしまった。私は、私の聖なる人たちを通してしばしばお前に語り、お前を立ち直らせようと望んだが、お前は聞かなかった。いま、私は、何をすべきか分からない。そこで私は、お前に言う。「お前の心をどのようにしようかと、主なる神は言われる。なぜならお前は、尊大な売春婦のなすこれらすべての業を行なっているからだ」と。私たちはしばしば、こう言ってきました。すなわち、敵対する諸力は、人間の魂の美しさを愛していること、そして人間の魂は、これら諸力の種を受け取ると、ある意味でそれらの諸力と姦淫することになると申し上げました。ところで日常生活においても、人目につかないことを望みながら恥らいをもって姦淫をする売春婦がおる反面、みずからの恥じらいによって罪を覆い隠さないばばかりか、厚かましく姦淫を重ねる売春婦もおります。それで(神は)、あの罪深いエルサレムの中で姦淫をする魂の例を取って、エルサレムが、大胆に姦淫を重ねる執ような売春婦に似てしまったと言っているのです。そして私たちも、しばしばこのようなことを犯しているのです。すなわち、信仰から完全に離れてはいないが、罪に打ち負かされ、人目につかないことを望みながら罪を犯す人々は、羞恥心を持った売春婦と同じことをしているのです。また信仰から完全に離れてしまい、司教や司祭、助祭、兄弟を意に介さず、大胆不敵に罪を犯す者たちは、臆面もなく売春をする娼婦と同じことをしているのです。そういうわけで神は、現在の箇所で、罪深いエルサレムについて嘆き、エルサレムに向かってこう言ったのです。「お前は、お前の娘たちの間で、姦淫を三重に行なった[4]」と。私たちが、このことを説明しましたのは、「お前は、すべての通りの頭に汚らわしい家を建てた。そしてお前は、すべての広場に台座を作った[5]」という言葉が我々に語られたからです。



[1] Cf.Ez.16,31-33.

[2] 1 Co.15,33.

[3] Cf.Ez.16,30.

[4] Ez.16,30.

[5] Ez.16,31.

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