第9講話

 

「お前の母はヘト人、父はアモリ人である」から、「お前は、乏しい者、貧しいものに手を差し伸べなかった」まで。

 

 預言の始めでエレミアが、カナンの地に根を持ち、その出身であるかのように扱われ、アモリ人の父とヘト人の母を持っていると非難されているのを読む人は[1]、いま私たちが解釈に努めたことを呼んで見ると、同じことが繰り返され、一つの言葉が二度宣べ伝えられていると考えるでしょう。しかし注意深い読者は、この聖書の言葉の意味の考察に取り組んで、以前のものと目下のものを付き合わせ、言葉と言葉を比較して、偶然とはいえない違いを見出すでしょう。すなわち、以前のところでは「お前の根とお前の同世代の人々とは、カナンの地からきている[2]」とありますが、これは目下の個所では言われていません。「お前の父はアモリ人、そしてお前の母はヘト人」とありますが、これは目下の個所では示されていません。また以前の個所では「お前の父はアモリ人である」が先ず置かれ、次に「お前の母ヘト人である」とあります。ここではしかし、「お前たちの母は、ヘト人、そしてお前たちの父はアモリ人[3]」となっています。前の個所では一人の言葉が向けられていますが、ここでは複数の人に向けられているようです。なぜなら前の個所では「お前の母」とありますが、目下の個所では「お前たちの母」とあるからです。したがって罪が広がり、邪悪が広く進行して、罪人とたちが互いに自分の罪をなすり合うとき、罪人は一人ではありません。今のように多くの罪があるわけではなく、まだ罪の犯し始めときに、一人の罪人の中に複数の罪人がいるのです。そこで目下の話から少し離れますが、罪の本性と徳について考えるのは、有益だと私に思われます。罪のあるところには、多数性、諸々の分裂、数々の異端、諸々の不和があります。しかし徳のあるとこには、単数製、一致があり、すべての信者には「一つの心、一つの魂[4]」があります。そしてもっと明瞭に言いますと、すべての悪の元は多数性ですが、諸々の善の元は雑多な多数性から単一性への引き締めであり縮小なのです。たとえば私たちが救われるためには、私たちは一致して、「思いと考えを同じにして完成された者になり[5]」、「一つの身体、一つの霊になら[6]」なければなりません。しかしもしも私たちが、一致によって互いに結ばれておらず、かえって私たちについて「私はパウロにつく、私はアポロにつく、私はケファにつく[7]」と言われるようになったり、更には私たちが悪意によって分かれ、分裂しているとすれば、私たちは、一致に結ばれて人たちのいるところに将来いることはないでしょう。実際、おん父とおん子が一つであるように、一つの霊を持っている人々は、一致するのです。実に救い主は、こう言っております。「私と父は一つである[8]」。「聖なる父よ、私とあなたが一つであるように、彼らも私たちの内にあって一つとなるようにしてください[9]」。また使徒(の書簡)ではこう言われています。すなわち、「私たち全員が、完成された大人となり、キリストとの一致のうちに充ち満ちた年齢に達するまで[10]」。また「私たち全員が、キリストの体と霊の一致に達するまで[11]」と言われています.。これらの言葉から、徳が多くのものを一つにまとめること、そして私たちは徳によって一つとなり、多数性を避けねばならないことが示されています。これらのことを述べたのは、前の朗読個所では、「お前の父とお前の母、そしてお前の世代の根[12]」と書き記されていたのに、目下の個所では、「お前たちの母とお前たちの父[13]」と書き記されていたからです。前の個所では、(聖書の)言葉が「アモリ人の父、ヘト人の母」について、そして「エルサレムが姉妹を持っている」ことについて述べていたこといがい学びませんでしたが、ここでは、(預言者は)付け加えてこう言っています。「お前たちの母はヘト人、お前たちの父はアモリ人、そしてお前たちの姉はサマリア人である。この姉とその娘は、お前の左手に住んでいる。そしてお前の右手に住んでいるお前の妹はソドムである[14]」と。もしも私が徳にしたがって生きたなら、徳が私を「アブラハムの息子」にするのと同じように――実際、「アブラハムの業を行う者は、アブラハムの息子になります[15]」――、諸々の悪徳は、私を「悪魔の子」にします。なぜなら「罪を犯す人はみな、悪魔から生まれた[16]」からです。更に徳は、私にキリストを兄弟として持つようにさせます。したがってもしも私が善良で、しかも正しく振舞ったなら、(主は)、ご自分のおん父にこう言うことになります。「私は、あなたの名前を私の兄弟たちに語ろう。私はあなたを教会[集会]のただなかで歌おう[17]」と。そして(主の)み言葉を宣べ知らせることのできる婦人に向かってこう言っています。「行きなさい、そして私の兄弟たちに語りなさい[18]」と。これに対して、徳が、主イエズスを私の兄弟にするのと同じように、悪徳は、多くの罪人を兄弟とします。そしてこれらの兄弟たちも、成長すると、私の兄弟を生むのです。実に、罪深いエルサレムも、始めは、「妹のサマリア」も「姉妹のソドム」も持っていませんでした[19]。しかし(預言者の)言葉が先ほど示したように、悪行に進んだとき、(罪深いエルサレムは)、二人の姉妹、姉のサマリアと妹のソドムの間に身を置くことになりました。罪深いエルサレムのこれら二人の「姉妹」は、何でしょうか。分派と民の分裂がサマリアを作りました。実際、十部族が「ダビデ(の家)に我々の取り分はない。エッサイの子(の家)に共有すべきものはない[20]」と言って(各自の天幕に)戻っていったとき、「二体の黄金の子牛」がヤロブアムによって作られ[21]、サマリアに分裂が起こりました。そしてこの分裂は、「十部族の捕囚」の後さらに大きくなりました。このときサマリア人と呼ばれる「番兵たち」がアッシリア人たちによってイスラエルの地に派遣されてきたのです[22]。実際、ソメルという言葉は、ヘブライ人たちの言葉で、「番兵」と解釈されます。ですから、始にも述べましたとおり、私が諸々の罪から遠く隔たっている限り、サマリアは私の「姉」ではありません。しかし私が罪を犯すと、「姉のサマリアと妹のソドム」という二人の「姉妹」が私のところで生まれ育つのです。この姉妹が、何の象徴となっているか、私たちは考察してみましょう。神のみ言葉を約束しながら、約束するとおりに預言の真理を自らのうちに持っていない人は誰でも、聖書の中で象徴的にサマリアと名付けられています。「禍かな、シオンをさげすみ、サマリアの山に信頼を置くあなた方は。お前たちは、諸国の民の頭として摘み取られる[23]」と言われています。この言葉はあたかも次のように言っているかのようです。「禍かな、教会をさげすみ、異端者たちの高慢と尊大な言葉に信頼を置く人たちは!」と。実際、これが、「シオンをさげすみ、サマリアの山に信頼を置くこと」なのです。ですからもしも私たち教会人も、罪を犯すなら、邪悪な教説を抱く異端者たちは、私たちと無縁ではありません。罪を犯す人は誰でも、悪しき信仰を抱いているのです。もしも私たちが悪い振る舞いをしているなら、ソドムは私たちの妹になります。不信仰の人たちが、ソドムだからです。また私たちは、罪を犯すなら、異端者や不信仰者の兄弟になります。なぜならサマリアは、異端者の意味で、ソドムは不信仰の意味で理解されるからです。ところでサマリアは、「罪深いエルサレムの左に」住んでいます。そしてソドムは、右に住んでいます。なぜなら行いによって犯される罪は、ソドムにおいてより高くほめそやされるからです。ですからソドムは、エルサレムの右にあるのです。またサマリアは(エルサレムから)遠く離れていません。なぜならサマリアは、エルサレムの左に住んでいるからです。そしてエルサレムは、「その娘や姉妹たちと一緒にあらゆる不正の中を歩き」、エルサレムの罪に比べれば、彼女らの不正は、正しいもののようだとして非難されます[24]。それ故、ソドム人たちの不正を知る必要があります。それは、私がその知識を得て、ソドム人たちの不正からわが身を守り、無知に捕らわれないようにするためです。



[1] Cf.Ez.16,3.

[2] Ez.16,3.

[3] Ez.16,45.

[4] Ac.4,32.

[5] 1 Co.1,10.

[6] Ep.4,4.

[7] 1 Co.1,12.

[8] Jn.10,30.

[9] Jn.17,11.21.

[10] Ep.4,13.

[11] Ep.4,13.

[12] Ez.16,3.

[13] Ez.16,45.

[14] Ez.16,45.46.

[15] Cf.Jn.8,39.

[16] 1 Jn.3,8.

[17] Ps.21(22),23.

[18] Cf.Jn.20,17.

[19] Cf.Ez.16,46.

[20] Cf.1R.12,16.

[21] Cf.1R.12,28.

[22] Cf.Jr.4,16.17.

[23] Cf.Am.6,1.

[24] Cf.Ez.16,47,51.

 

 

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