「しかしお前の妹のソドムの不正がある」とあります。どのような不正でしょうか。「高慢である。エルサレムとその妹は、パンの飽食と豊饒の内に満ち足りていた。そして貧しく乏しい者の手を取らなかった[1]」とあります。諸々の罪が均等でないことは、聖書の教えによってまったく疑いがありません。実際、大きな罪やより小さな罪があると聖書によって言われています。ところで罪は均等でないとすれば、すなわち罪に大小があるとすれば、おそらく人は、すべての罪の中で何がもっとも大きな罪なのか問うことでしょう。そして、すべての罪の中で、姦淫なり不純なり、あるいは情欲のなせるあらゆる汚れがもっとも大きな罪だと容易に理解されます。確かにこれらの罪は、忌み嫌われるものであり、汚れています。しかしこれらは、目下の聖書ですべての罪の中で最も大きな罪として断罪され、我々がそれから身を守るべき罪ではありません。では、どのような罪がすべての罪の中でもっとも大きいのでしょうか。それは、悪魔も陥った罪であることに間違いありません。悪魔が非常に高い地位から落ちていったこの罪とは何でしょうか。使徒は「高慢な者は悪魔の裁きに陥る[2]」と言っています。傲慢、高慢、尊大は、悪魔の罪です。そしてこれらの罪のゆえに悪魔は、点から地へと移ってきたのです。それで「神は、おごり高ぶる者たちに逆らい、謙る人たちに恵みをお与えになるのです[3]」。そして「なぜ、地と灰は、おごり高ぶり[4]」、人間は高慢に高ぶり、自分が(かつて)何者であり、どれほど脆い器の中に閉じ込められ、どのような塵の中に浸り、どのような排泄物を常に自分の身体から「排泄している」か忘れてしまったのでしょうか。実際、聖書は何と言っているでしょうか。「地と灰は、なぜ思い上がるのか」、そして「(人間は)その生活の中で、自分の内臓を出してしまった[5]」とあります。高慢は、あらゆる罪の中でもっとも重いものであり、悪魔自身の第一の罪なのです。聖書が、悪魔の諸々の罪を叙述する場合には、あなたは、それらの罪が高慢を源として湧き出してくることを見出すでしょう。実際、聖書はこう言っています。「私は、力をもって行おう。そして知性の知恵をもって諸国の民の境を取り除く。全地を鳥の巣のように掴み、砕かれた卵のように取り除く[6]」。悪魔のこれらの言葉をご覧下さい。これらの言葉は、何と高慢なことでしょう。何と尊大でしょう。悪魔は、全世界を無のように見なしています。自惚れと高慢にのぼせる人はみな、このような人です[7]。高慢の原因は、富、威厳、世俗の栄光です。司祭職とレビの身分は、教会の威厳の何たるかを知らない人にとっては、しばしば高慢の原因となります。司祭職に立てられたどれほど多くの人たちが、謙遜さを忘れているでしょうか。彼らはまるで、謙遜であることをやめるために司祭に叙階されたようなものです。むしろ彼らは、威厳を得たからには、更にいっそう謙遜さを追求しなければなりません。聖書は、こう言っています。「お前は、偉くなればなるほど、へりくだりなさい[8]」と。会衆は、あなたにを愛すべき人と見なしています。あなたは、自分の頭を謙虚にたれなさい。会衆は、あなたを指導者として立てました。あなたは高められていると望んではなりません。あなたは、彼らの内の一人として、彼らの中にいなければなりません。謙遜でなければなりません。身を低くしていなければなりません。すべての悪の源である高慢を避けねばなりません。福音の中で、ファリサイ派の高慢と傲慢がどのような断罪で打たれているかをお考え下さい。「ファリサイ派の人は立ち、そのままの姿勢でこう祈っていた。『神よ、私はあなたに感謝いたします。なぜなら私は、他の人たちのように、強奪者や、不正な人、姦通者、またこの徴税人のような人間ではないのですから。また私は、安息日に二度断食をしております』[9]」と。しかし他方、「徴税人は、謙虚に、そして控えめに、遠く離れて立ち、敢えて目を上げることもなく、こう言っていました。『神よ、罪びとである私をあわれんでください』[10]」。そして「徴税人は、義とされて自分の家に下りました[11]」。彼は、たんに「義とされた」だけではありません。ファリサイ派の人との比較において「義とされています」。実際、聖書の言葉と順序と結合には、どれもことごとく、細心の注意を払って考察されねばなりません。(たんに)「義とされる」ことと、他の観点において「義とされること」とは、違うのです。徴税人がファイサイ派の人との比較において義とされたことは、ソドムとサマリアが、罪深いエルサレムとの比較において義とされること似ているのです[12]。そして私たちは、私たち一人ひとりが裁きの日に、ある観点では義とされ、別の観点では断罪されることを知っていなければなりません。たとえ私たちが、他の観点で義とされても、このような義は、賞賛に値するというよりも、むしろ非難に値するのです。たとえば、私がソドムのような罪を持っていることが明らかになると共に、二倍の罪を犯した人が公に引き出された場合、確かに私は義とされますが、しかし義人としての私が義とされるのではなく、多くの罪を犯した人との比較において義と判断されるのです。と言いますのは、私は義とはほど遠いからです。禍かな、多くの罪人たちと比較して義とされる人は。これに反して、義人たちと比較して義とであることが明らかになった人は、はるかに幸いです。私たちは、義人に対する賞賛の中に優劣が置かれていることを見出します。たとえば、しかじかの人ほど、主のみ前で義をなした人はいないとか、「ヨシアほど見事に過越を祝ったものはいない[13]」とあります。この言葉から、義人たちの比較が行われ、このように義とされるに値する人こそ新の意味で義人であるとされていることが明らかに示されています。とにかく私も、知恵ある人たちと比較されて知恵ある者とされ、義人たちと比較されて義人とされますように! 私は、不正な人たちと比較して義とされたくはありません。なぜならそのような義は、非難されるべきものだからです。



[1] Ez.16,49.

[2] 1Tm.3,6.

[3] Jc.4,6.

[4] Si.10,9.

[5] Si.10,9.

[6] Is.10,13.14.

[7] Cf.Hom.Ex.1,6.

[8] Si.3,18.

[9] Lc.18,11,12.

[10] Lc.18,13.

[11] Lc.18,14.

[12] Cf.Ez.16,51.

[13] Cf.2 Par.35,18.

 

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