以上のことを前もって述べましたのは、朗読されたことの中で、「お前は、お前が行ったすべての不正のなかで、お前の姉妹を義とした[1]」と言われているからです。たしかにサマリアとソドムは、エルサレムの不正のゆえに義とさています。「お前は、お前のすべての不正の中で、彼女らをお前にまさって義にした[2]」とあります。したがって私たちは、私たちみなが裁きの日に、私たちよりも悪い人たちによって義とされと、また他の人たちが私たちによって義とされのではないかということをいっそう注意深く考察すべきです。たとえば、ソドムは、エルサレムによって義とされます。なぜならエルサレムは、いっそう忌まわしい罪を自ら犯していたからです。またおそらくエルサレムも、他のよりいっそう邪悪な町によって義とされることでしょう。同様に、反キリストと比べてみて、その不義や罪悪の点で余り悪くないとされた人は、反キリストによって義とされるに違いありません。しかし悪魔は、最悪です。そして一般に言われているように、悪魔によって義とされる人は、哀れです。そしておそらく悪魔の父は、アクアによって義とされないでしょう。なぜなら悪魔の父は、はるかに罪深いことがわかっているからです。これに対して私の主イエズス・キリストは、私たちの救いのために身に帯びた肉のオイコノミアのゆえに、アブラハムによって、イサクによって、ヤコブによって、そしてその他の預言者たちによって義とされます。すべての義人たち、預言者たち、祝福されたすべての人たちと比較してみても、ソドムとエルサレムとについて言われてことと反対のことが見出されますので、私は、我らの救い主にますます大きな栄光を帰します。以上のようなことを私は述べてみました。そして私は、あなた方の祈りに励まされ、神に助けられながら、聖書の説明をしてゆきたいと思います。ソドムは罪を犯しました。サマリアも罪を犯しました。エルサレムは、諸々の不正に覆われてしまいました。しかしより小さな罪は、より大きな罪によって義とされます。たとえば、ソドムは、その姉のエルサレムによって義とされます。そうしますと不正が誰かを義とするのと同じように、正義も誰かを断罪するときがあるわけです。しかしどうか皆さん、どのようにして義が誰かを断罪すると言われるのか、その点について教えられるまでもう少しお待ちください。私の不正は、より大きな不正と比べると正義です。同様に私の正義は、より多くの正義に比べれば不正と見なされます。それゆえ、「生けるものはみな、あなたのみ前で義とされることはない[3]」のです。アブラハムは義人であり、モーセは義人であり、傑出した人物たちのそれぞれが義人であったとしても、彼らは、キリストと比べると義人ではありません。彼らの輝きは、キリストの輝きと比べると、闇になるのです。そして燭台の光が太陽の輝きの前では、曇らされ、他の何らかの暗い物質と同じように曇るのと同じように、すべての義人たちの光は、人々の前で輝きますが、キリストの前では輝きません。実際、「あなた方の光を輝かせなさい[4]」と単純に言われているのではありません。「人々の前で輝かせなさい」と言われているのです。キリストの前では、義人たちの光は輝くことができません。月の光と天のきらめく星たちは、太陽が昇る前は、それぞれの場所で明るく輝きますが、太陽が昇ると見えなくなってしまいます。それと同じように、教会の光は[5]、月の光と同じように、「義の太陽[6]」のあの真の光が現れる前は、輝きわたり、人々の前で燦然と輝いていますが、キリストが来られると、彼の前では闇となるのです。また別の個所では、「光は、闇の中で輝く[7]」とあります。闇の中で輝くこの光は何でしょうか。義人たちの「光が闇の中で輝くのです」。では、どのような闇の中で輝くのでしょうか。それは、「私たちが、これらの闇の頭どもと戦っている[8]」場所です。これらのことを注意深く詳細に検討する人は、自分の光がより大きな光と比べると闇と見なされるのを見て、おごり高ぶることができなくなるでしょう。たとえ私が使徒パウロであったとしても、私の義は何になるでしょう。たとえ私がヨゼフであったとしても、私の貞潔は何になるでしょう。たとえ私がユダ・マカベアであったとしても、私の勇気は何になるでしょう。たとえ私がソロモンのように見えたとしても、私の知恵の徳は何になるでしょうか――神と比較しますなら、他のより優れた人たちと比較しますなら。ですから私たちが言い始めましたように、他の人々との比較によって不正は、ある人を義とし、正義は、ある人を断罪するのです。それで「あなたは、あなたのみ言葉によって義とされ、裁かれても勝利を収める[9]」と神に向かって言われるのです。もしも神が私を救おうとお望みであれば、(私の)裁きにご自分の光を差し入れません。もしも神が、私の潔癖をお望みであれば、おん子キリストの光をお与えになりません。さもなければ神は私を罰するでしょう。むしろ神は、より劣った人たちの光をもたらし、私をより劣った人たちと比較するのです。どれほど多くの優れた人たちを持ち出してこようとも、これらの人々が私より劣った人であることがあきらかになるなら、私はより正しくなるでしょう。使徒パウロによって言われていることも、同じように理解することができます。こう言われています。「太陽の栄光月の栄光、そして星の栄光は、それぞれ違います。実際、星の間には、明るさの違いがあります。死者の復活も同じです[10]」と。たとえば、あれこれの天体は、より明るい星の前では輝きませんが、より暗い星の前では輝くのです。我々のうちの誰が、月と同じ輝きを発することができるでしょうか。誰が、より明るい星の光で輝くことができるでしょうか――『ダニエル書』に「彼らは、代々に星のように輝く[11]」と書かれているように。



[1] Ez.16,51.

[2] Cf.Ez.16,51.52.

[3] Ps.142,2.

[4] Mt.5,16.

[5] 省略

[6] Ml.4,2.

[7] Jn.1,5.

[8] Cf.Ep.6,12.

[9] Ps.50(51),6.

[10] 1 Co.15,41.42.

[11] Dn.12,3.

 

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