そして以上のことは、私たちが高慢から遠ざかるために、どうしても論じておかねばなりませんでした。実際、ソドムの罪は、高慢でした。「お前の妹ソドムの人たちの不正は、この高慢である[1]」とあります。高慢はどこから生まれ、そのような根を持っているのでしょうか。こう付け加えられています。「(彼女とその娘たちは)パンの飽食と豊かさに満ち足りた[2]」とあります。もしもあなたが文字のことだけを考えると、ソドムの人たちにはかつて多くの豊かさがありました。実際、彼らの土地は、「神の楽園のよう、エジプトの地のよう[3]」でした。しかしもしもあなたが肉的理解から霊的理解へとのぼり、どのようにして「ソドムの人たちの高慢は、パンの飽食と豊かさに満ち足りた」かを知るならば、あなたは、生活の資質その他をより偉大なものによって正すための利益も得るでしょう。私たちは、何日も前に朗読されたことを思い起こしてみましょう。それは、「柔らかい紫の衣を着て、安楽と贅沢を楽しむ金持ち」と、「傷口の腐敗とうじ虫の汚れに憔悴し、「金持ちの食卓から落ちるパン屑を求めて自分の飢えを和らげようとするラザロ」についての話でした[4]。さて、ここで金持ちの不正がどのようなものであったかが明らかになるには、この例は時宜を得ています。彼は、富裕であり、喜びに満たされていました。聖書は、彼があたかも不正に富を所持していたかのように非難しませんし、神のみ言葉は、彼が娼婦たちに散在したり、人殺しを行ったり、その他どのような罪を犯しても、彼を非難しません。しかしもしもあなたが、目下の個所に書かれていることや福音書に言われていることを考察するなら、彼のすべての罪の中で最も大きな罪が高慢であったことを理解するでしょう。彼は、「パンの飽食と豊かさに満ち足りてしまい」、「彼の門の前で潰瘍にさいなまれて横たわっていた」人に対して憐れみの感情を抱かず、貧しさを見下してはなはだしく高満になり、より劣った人たちの苦しみや人類に共通の権利も眼中にありません。人間というものは、人間的な感覚を持つべきであり、他人の苦しみに対しても、それをいわば我がこととして哀れまなければなりません。したがってこの金持ちも、あのソドムの住人です。なぜなら、もしもソドムの罪が「パンの飽食と豊かさ」にあったなら、福音に述べられている罪人も同じようなもので[5]、この金持ちがソドムの住人であることに疑いないからです。更に、ソドムとソドムの娘たちが高慢であり、彼女らが尊大な魂であるならば、これらの魂は、ソドムの娘たちでもあります。そしてこれらの魂は、「みずからを高める者みな卑しめられ、みずからを卑しめる者はみな高められる[6]」という格言を知りません。



[1] Ez.16,49.

[2] Ez.16,49.

[3] Cf.Gn.13,10.

[4] Cf.Lc.16,19s.

[5] Cf.Lc.16,19.

[6] Lc.18,14.

 

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