「これが彼女と彼女の娘らの()である[1]」。引き続いてソドムの別の罪が続きます。私たちは、同じ罪に陥らないようにするために、この罪について語らねばなりません。「そして彼女は、貧しく窮乏した人の手を取らなかった[2]」とあります。あなたは、ソドムの諸々の罪の枚挙を注意深く考察してください。私自身も、もしも力の限りを尽くして貧しく窮乏した人の手を支えなかったら、ソドムの罪を持つことになります。また別の非難が続いています。「そして彼女は、高慢にもみずからに栄光を帰した[3]」とあります。栄光の誇示も、ソドムの罪です。ところでエジプトの罪があり、ソドムの罪があり、またバビロニアの罪があり、アッシリアの罪があり、モアブの罪があり、アモンの罪があります。「誰がそれらを理解できるほど賢いのか。誰がそれらを知るほど理解力があるのか[4]」。私たちがソドムの人たちの滅亡について書かれたことを読むときにはいつでも、私たちは、「哀れなソドムの人たち。地は彼らの実りをもはや結ばない、哀れで本当にかわいそうな人たち。彼らは、嘆かわしく恐ろしい運命に遭遇した」とは言わないことにしましょう。むしろこの言葉を私たちの心に転じ、「腹を探り[5]」、私たちの思いを吟味しましょう。そうすれば私たちが(彼らのために)嘆いた事柄が、私たちの内部に含まれていること、聖書が非難しつつ枚挙するソドムの罪やエジプトの罪、アッシリアの罪、その他すべての罪は、私たちの内に巣食っていることに気づくでしょう。私たちは、上で、聖書についてもっと重大なことを述べるつもりだと約束しました。パンに飽きたり、甘美やこの種の罪を犯したソドムに、律法は語っています。「お前は、飲み食いして満たされ、立派な家を建て、牛や羊が増え、金や銀を増やしても、主なる神を忘れないように気をつけよ[6]」。さらに別の個所では、「彼は、食べ、そして飲んで、満ち足りて太り、(主に)愛されていたのに跳ねつけた[7]」と言われています。ソロモンも『箴言』の中でこれと似たようなことを言っています。「しかし私に必要で充分なものをお与え下さい。それは私が満ち足りて欺瞞者となり、『誰が私を見ているのか』とか『私は、貧しくなれば盗みをし、神の名において誓う』と言わないようにするためです[8]」と。単純に言いますと、富や豊満、多くの食べ物、威厳、権能ほど、高慢に導くものはない言わなければなりません。しかしさらに高い逸脱を見ることができます。なぜならもしも私が神の言葉を理解していたら、あるいはもしも私が他の人たちよりも賢かったとしたら、私は頻繁に「高慢を養う」ことになるからです。実際、「知識は思い上がる[9]」からです。私が言っているのではありません。使徒が言っているのです。それゆえこの私自身も、思い上がるのではないかと心配しています。有益なことに数々の霊的賜物(カリスマ)は与えられます。有益なことに恵みが与えられるとすれば、有益でない人とは誰でしょうか。なぜその人が有益でないか、あなたはお聞きください。劣った人は、自分が他の人たちの間で傑出していると考えるとき、高慢になり、ある種の自己満足を覚えるものです。ですからしばしば、「パンの飽食と豊富さ」は、傲慢の原因となります。しかし、霊的な賜物からも、しばしば高慢の罪が生じます。そしていずれの場合にも危険が存在します。パウロほどの偉大な人物も、「はなはだしく思い上がらないようにするために、サタンの使いによる一撃[10]」が必要でした。実際、彼は、多くの人々のために自分が求めるものを与えてくださるように神に祈り願ったとき、願ったのに、その願いがかなえられなかったので[11]、彼にこう言われているのです。「私の恵みは、おまえに充分である。力は、弱さの中で全うされるからである[12]」と。ですから、今もって、この光の下で人類の中で暮らしている人は、この代で善と見なされていることばかりでなく、本当に善であるものも恐れなければなりません。なぜなら私たちは、あまり偉大なものに耐えることができないからです。この一文の証明のために、私は、ダビデの物語を提出したいと思います。この物語では、ダビデがウリアに対して罪を犯したことが書き記されています。ウリアの前では、いかなる罪もダビデに見出されませんでした。そして彼は、「神のみ前に咎めもなく[13]」祝福された人間でした。ところが、自分の生活の汚れなさに気づいた彼は、言う必要もないことを言いました。「主よ、私の正しい訴えを聞き、私の願いを省みてください。私の偽らぬ唇から出る私の祈りに耳を傾けてください。あなたのみ顔から、私の裁きを送り出し、あなたの目をもって不正の数々をご覧ください。あなたは私の心を試され、夜、(私の心を)訪れになりました。あなたは、火をもって私を吟味されました。そして私には、不正が見出されませんでした[14]」。彼がこんなことを言ったのは、神の訪れが、生活の至福の自覚のゆえに行われたと思ったからです。それゆえ彼は、助けを奪い取られ、人間の弱さが何であり得るかを思い知るに到ったのです。実際、「子どもらが、特に婦人たちから清められているならば[15]」という言葉を聞き、「清い人」として感謝の祭儀を受けたあのもっとも貞潔で、その慎み深さで賞賛された人物は、神の保護がなくなると、耐え忍ぶことができませんでした。帰って彼は、かつて自分が自制しているとして賞賛されていた罪の中に見出されることになったのです。ですから、もしも誰かが自分自身の純潔を意識してみずからをたたえ、「あなたが受け取らなかったなら、何を持っているというのか。しかしもしもあなたが受け取ったなら、なぜあなたはそれを受け取ってないかのように誇るのか[16]」という言葉を心にとめていないなら、その人は、捨て置かれ、この見捨てられた状態の中で、自分が知った諸々の善は自分自身によるのではなく、神によるものであったことを経験から学ぶのです。神は、すべての徳の源なのです。以上によって、「パンの飽食」と霊的な賜物は、それらを担うことのできない人にとっては、高慢を生み出す種になることは明らかです。ですから私たちは、ソドムとその諸々の罪から逃れましょう。サマリアから逃れましょう。哀れなエルサレムが懲らしめを受けたその諸々の罪から逃れましょう。そして神が万事につけて私たちに力を与えてくださり、キリスト・イエズスにおいて謙遜と正義を獲得できるようにしましょう。「キリスト・イエズスに栄光と支配が代々にありますように。アーメン[17]」。



[1] Ez.16,49.

[2] Cf.Ez.16,49.

[3] Cf.Ez.16,50.

[4] Os.14,10.

[5] Cf.Ap.2,23.

[6] Cf.Dt.8,11-14.

[7] Cf.Dt.32,15.

[8] Pr.30,8.9.

[9] Cf.1Co.8,1.

[10] Cf.2Co.12,17.

[11] Cf.2Co.12,18.

[12] 2Co.12,9.

[13] Cf.Si.10,5.

[14] Ps.16(17), 1-3.

[15] Cf.1S.21,4.

[16] 1Co.4,7.

[17] Cf.1P.4,11.

 

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