10 「そして神は、それらのものが善きものであることを見た。そしてそれらを祝福して言った:あなた方は成長しなさい、そして数多くされなさい、そして、海の中にある諸々の水を満たしなさい;そして、翼あるものたちは、諸々の土地の上で充満されなさい。そして夕が作られ、朝が作られた。第五の日である[1]」とあります。

実に(神は)、「大きな海獣たち」と、「諸々の水が生み出した這う生き物たちの一切の魂」が海の中に留まることを命じます。そしてそこに、神がご自分を嘲笑うために造形した竜も、居住しています[2]。他方(神は)、鳥たちが土地の上で数多くされるように命じています。その土地は、かつては「乾いたもの」でしたが、いまや、「土地」と呼ばれます――私たちが上で説明しましたように。

しかし、人は次のことを尋ねるでしょう:どのようにして大きな海獣たちと這うものたちは悪の中で捉えられ、そして、翼あるものたちは善の中で捉えられるのか――すべてのものについて、同時に次のことが言われているのに:「そして神は、それらのものが善きものであることを見た[3]」と。

聖なる人たち自身にとっては、彼らに敵対する者どもは善きものです。なぜなら彼らは、それらに打ち勝つことができるからです。そして彼らがそれらに打ち勝つと、より大きな栄光に包まれて神の許に立ちます。結局のところ悪魔が、ヨブに対する権能が自分に与えられるように懇願したとき[4]、彼を攻撃する敵は、彼にとって勝利の後の二重の栄光の原因になりました[5]。そのことは、彼が現在に失った諸々の物を二重に受け取ったことから明示されます。そして彼は、同じような仕方で、疑いもなく、諸々の天の中でも(それらを)受け取るでしょう。そして使徒も、「合法的に競った人でなければ、誰も栄冠を授けられない[6]」と言っています。そして実のところ、抵抗するものがなかったなら、どのようにして競争が存在するでしょうか。夜の闇が介在しなければ、光のいかほどの優美さも輝きも認識されないでしょう。他の人たちが不純の故に断罪されなければ、ある人が何処から貞潔において称賛されるでしょうか。非戦的で臆病な人たちが存在しなければ、どこから力強い男たちが褒め称えられるでしょうか。もしもあなたが辛いものを加えれば、甘いものはより称賛されるものになります。もしもあなたが、陰気なものを考察したなら、諸々の明瞭な事柄があなたとってより歓迎すべきものに見られるでしょう。そして、私が手短に言えば、悪人たちの考察から、善人たちの優美さがより輝かしく示されます[7]。ですからそれゆえ、諸々のすべてのものについて、()文書は次のことを言っています:「そして神は、それらが善きものであることを見た[8]」と。

しかしながら、なぜ、「そして神は、それらが善きものであると言った」と書かれずに、「そして神は、それらが善きものであることを見た[9]」と書かれているのでしょうか。それはすなわち、(神が)それらのものの効用と理拠――それらがそれ自体ではそのようなものであるにもかかわらず、諸々の善きものを最善なものにできるという理拠――を見ているからです。それ故、(神は)次のことを言いました:「あなた方は成長しなさい、そして数多くされなさい、そして、海の中にある諸々の水を満たしなさい;そして、翼あるものたちは、諸々の土地の上で充満されなさい[10]」と。それはすなわち、私たちが上で説明したように、大きな海獣たちと這うものたちが海の中に存在するためであり、翼あるものたちが諸々の土地の上に存在するようになるためです。



[1] Gn.1,21-23.

[2] Cf.Ps.103,26.

[3] Gn.1,21.

[4] Cf.Jb.1,6s.

[5] Cf.Jb.42,10.

[6] 2Tm.2,5.

[7] Cf.Hom.Nb.9,1.

[8] Gn.1,21.

[9] Gn.1,21.

[10] Gn.1,22.

 

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