13 言うまでもなく、次のことは、人間の製作において更に顕著な都であると私は見ており、他の箇所で言われているのを見出しません:それはつまり、「そして神は、人間を作った。(神は)神の像に即して彼を作った[1]」ということです。そのことは、天の中においても、土地の中においても、太陽や月の中においても指定されているのを、私たちは見出しません。

「神の像に即して」作られたと(聖文書が)言っているこの人間を、もちろん私たちは物体的なものと知解しません。実際、物体の造形物は、神の像を含みませんし、物体的な人間は作られたと言われておらず、造形されたと言われています。それは、続く諸々の箇所の中に書かれている通りです。すなわち(聖文書は)言っています:「そして神は、土地の泥から人間を造形した[2]」、すなわち、造形したと。

他方、「神の像に即して」作られたものは、私たちの内的な人間です;不可視的で、非物体的で、不滅で、不死の(内的な人間です)。実際、それら(の性質)の中で神の像はより正しく知解されます。実のところ、もしも人が、この物体的なものが、「神の像と似姿とに即して」作られたものであると考えるなら、神ご自身が物体的なもので、人間的な形姿を着ていると見られます。神についてそのことを感知することは、不敬虔です。詰まるところ、神性の知解を知らないそれらの肉的な人間たちは、(聖なる)諸々の文書の中で神に関して、「天は私の座であり、土地は私の諸々の足の踏み台[3]」という言葉を読むと、天の中に座っている神は、(自分の)諸々の足を土地にまで伸ばすと(その肉的な人間が)考えるほど、巨大な物体に属していると憶測します。彼らがそのことを感知するのは、神に関して()文書によって述べれられている神の諸々の言葉を相応しく聞くことのできる諸々の耳を持っていないからです。実際、「天は私の座である」と(聖文書が)言っていることは、次のようにして神に関して相応しく知解されます:すなわち、「その暮らしが諸々の天の中にある[4]」ところの人たちの中に、神は安らい居住していることを私たちが知ることによって。しかし、これまで土地的な意図を抱いてきた人たちの中には、彼の摂理の最果ての部分が見出されます。そのことは、諸々の足の呼称の中に形象的に示されています。もしも彼らの中に、生活の歓声と知解の高尚さとによって天的な者たちになるという熱意と熱望を持っていたなら、彼らも神の座になります――彼らが先ず、生活と暮らしとにおいて天的な者たちになることによって;彼らは次のことさえ言います:「(神は)私たちをキリスト共に立たせ、私たちを諸々の天の中で同時に座らせてくださった[5]」と。しかし、「その宝が天の中にある[6]」ところの人たちも、天的な者たちと言われ、神の座と言われ得ます。なぜなら、「彼らの宝のあるところに、彼らの心がある[7]」からです。そして神は、彼らの上に安らうばかりでなく、かれらのなかに居住します[8]

しかしながら、もしも誰かが、「それともあなた方は、キリストが私の中で語っていることの証拠を求めるのですか[9]」と言うことができる程になり得るなら、神はその人の中に居住するばかりでなく、(ともに)歩き回ります。そしてそれ故に、天的な者たちに作られた、あるいは、諸々の天になった完全者たちは皆、詩編の中で(聖文書が)言っているように、「神の栄光を物語ります[10]」。それ故にまた、諸々の天であった使徒たちも、神の栄光を物語るために遣わされ、「ボアネルゲス、すなわち、雷の子ら[11]」という名前を受け取ります――それは、雷の権能を通して、彼らが本当に諸々の天であることを、私たちが信じるようになるためです。

ですから「神は人間を作りました、神の像に即して彼を作りました[12]」。私たちは、神のその像が何であるかを見なければなりませんし、何の像の似姿に即して人間が作られたかを探求しなければなりません。なぜなら(聖文書は)、「神は像に即して、あるいは、彼の似姿に即して人間を作った」とは言わず、「神の像に即して彼を作った」と言っているからです。その像の似姿に即して人間が作られたところの神の像は、「一切の被造物の初子[13]」である私たちの救い主を除いて、どんな像があるでしょうか。彼について、次のことが書かれています:彼は、「永遠の光の輝きであり、神の実体の顕著な形象である[14]」。彼はまた、自分自身についてみずから言っています:「私は父の中におり、父も私の中にいる[15]」、そして、「私を見た者は、父をも見たのである[16]」と。実際、誰かの像を見た人は、その像が表しているその誰かを見ているのと同じように、神の像である神のみ言葉を通して、人は神を見ます。こうして次のことも真実になるでしょう:すなわち彼が、「私を見た者は、父をも見たのである[17]」と言っていることです。

彼の像の似姿に即して人間は作られました。そしてそれ故に、神の像である私たちの救い主は、ご自分の似姿に即して作られた人間のために憐みに動かされ、彼がご自分の像を脱ぎ捨てて、邪悪者の像を着たのをご覧になり、憐みに動かされてみずから人間の像を摂取し、人間の許に来ました。それは、使徒も確認して言っている通りです:「彼は神の形姿の中にいるにもかかわらず、神と同等であることを分捕り品であるとは考えず、自分自身を虚しくして、しもべの形姿を取り、人間たちの似姿の中に成り、その状態において人間として見出され、死に至るまで自分自身を遜らせました[18]」と。

ですから、彼の許に来て、理性的な像の参与者たちになることに努める人は誰でも、みずからの進歩を通して、「内的人間に即して日毎に新たにされ[19]」、自分を作った方の像に近づきます。こうしてその人たちは、「彼の明晰さの身体と同形の者たち[20]」なることができます――ただし一人ひとりは、各自の諸々の力に応じて。使徒たちはみずからを、彼の似姿へと変容させたので、彼みずから彼らについて言っています:「私は、私の父とあなた方の父の許へ、私の神の許へ、そしてあなた方の神の許へ、行く[21]」と。実際、彼自身が既に、自分の弟子たちのために、原初の似姿が彼らに戻されることを父に願っていました――彼が次のことを言うとき:「父よ、ですから、私たち、私とあなたとが一つであるように、彼らも私たちにおいて一つになるようにして下さい[22]」と。

ですから私たちは、その神の像を常に見詰めましょう――私たちが彼の似姿へと変容され得るようになるために。実際、神の像に即して作られた人間が本性に反して、罪を通して悪魔の似姿を見詰め、悪魔に似た者になったなら、いわんや、神の像を見詰めたなら、その似姿に即して神によって作られた人間は、み言葉とその徳力とを通して、本性によって彼に与えられていたその形姿を受け取るでしょう。そして誰人も、自分の似姿が神とより悪魔との者であることを見て、自分が神の像の形姿を再び回復することに絶望すべきでありません。なぜなら救い主は、「義人たちでなく、罪人たちを悔い改めに呼ぶために[23]」来たからです。マタイは徴税人でした[24]。そして彼の像は、悪魔に似ていましたが、私たちの主であり救い主である神の像の許に来て、その像を追い求めたとき、神の像の似姿に即して変容されました。「ゼベダイの息子ヤコブと、彼の兄弟ヨハネは漁師でした[25]、そして諸々の文字のない人間たちでした[26]。実に彼らはそのとき、むしろ悪魔の像に即して(その)似姿を再現していました。しかし彼らも、神の像を追い求めたとき、それに似た者たちにされました――他の使徒たちもなったように。パウロは、神の像ご自身の迫害者でした[27]。しかし彼が、その(像の)優美さと美しさを見詰めることができるようになると、その視像それ自体によって彼は、次のことが言えるほどにその似姿に即して変容されました:「それともあなた方は、私の中で語るキリストの将校を探求するのですか[28]」と。



[1] Gn.1,27.

[2] Gn.2,7.

[3] Is.66,1.

[4] Cf.Ph.3,20.

[5] Ep.2,6.

[6] Cf.p.ex.Mt.19,21.

[7] Lc.12,34.

[8] Cf.2Co.6,16.

[9] Cf.2Co.13,3.

[10] Ps.18,1.

[11] Mc.3,17.

[12] Gn.1,27.

[13] Col.1,15.

[14] He.1,3.

[15] Jn.14,10.

[16] Jn.14,9.

[17] Jn.14,9.

[18] Ph.2,6-8.

[19] 2Co.4,16.

[20] Ph.3,21.

[21] Jn.20,17.

[22] Jn.17,21-22.

[23] Lc.5,32.

[24] Cf.Mt.10,3.

[25] Cf.Mt.4,18.21.

[26] Ac.4,13.

[27] Cf.1Tm.1,13.

[28] 2Co.13,3.

 

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