15 しかし私たちは、比喩(的解釈)によって、どのようにして人間が神の像に即して男と女に作られたかを見ましょう。

私たちの内的な人間は、霊と魂とから成り立っています。霊は男と言われ、魂は女と名づけられ得ます。もしもそれらが、互いの間で調和と同意を持っち獲れば、互いの間の和合それ自体によって、それらは繁茂し多数化されますし、子たちとして善き諸々の感知や有益な諸々の知解や諸々の考えを生み出します。それらはそれら(の子たち)によって、土地を満たし、その(土地の)中で君臨するはずです。すなわち(霊と魂は)、みずからに従わせられた肉の感知をより善き諸々の目的へと転向させ、それに対して君臨します――すなわち肉が如何なる点でも、霊の意図に反して高慢にならない限りで。しかしながら、霊に結ばれ、いわば霊との婚姻によって(霊と)一対になった魂が、もしもある時は諸々の身体的な欲望に傾き、自分の感知を肉の享楽に向け、ある時は霊の諸々の救済的な警告に従うように見られても、しかしある時は、肉的な諸々の悪徳に譲歩するならば、そのような魂は、いわば身体の姦淫によって穢れたものとして、繁茂するとも多数化されるとも合法的に言われません。なぜなら()文書は、姦淫者たちの子らは、不完全なもとのして描写しているからです[1]。実際、そのような魂――霊との結合を放棄することによって肉の感知と身体的な諸々の欲求にすっかり平伏す魂――は、いわば神からみだらに離反したものとして、次の言葉を聞くはずです:「遊女の顔があなたに作られた。あなたh亜すべての人に対して恥じらいのないものになった[2]」と。ですから(そのような魂は)、遊女として罰せられるでしょう。そしてその子たちは、殺害に備えられると命じられます[3]



[1] Cf.Sg.3,16.

[2] Jr.3,3.

[3] Cf.Is.12,21.

 

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