17 「そして神は言った:見よ、私はあなた方に、一切の土地の上にあって種を結ぶ草と、種をつける実をみずからの内に持つ木を与えた。それは食べ物になるだろう――あなた方のため、土地のすべての諸々の獣のため、天のすべての翼あるもののため、土地の上を這うすべての這うもののため、みずからの中に命の魂を持つものたちのため[1]」。

もちろん、この文章の歴史(的な意味)は、明らかに次のことを示しています:神によって諸々の草からの、すなわち、諸々の野菜と諸々の木の諸々の実から、諸々の食物の用を許されたということです。しかしその後、洪水の後でノアに対して契約が成ったとき、諸々の肉を食用とする権能が人間たちに与えらえます。もちろん、その諸々の原因については、その諸々の箇所の中でより直接的に説明されるでしょう。

しかし、比喩(的解釈)に従えば、土地の草と、人間たちに食べ物として許されるものの実とは、諸々の身体的な情動に関するものとして知解されます;例えば、怒りと欲望は、身体の発芽です。その発芽の実り、すなわち、業は、私たち理性的な者たちと、土地の獣たちとに共通です。実際、正義のために私たちが怒るとき、すなわち、犯罪者の矯正と彼の救済の修繕のために私たちが怒るとき、私たちは、土地のそのような実りを食べ物とします。そして、私たちの食べ物は、身体的な怒りになります――その怒りによって私たちは、罪を抑制し、正義を回復します。

そして、私たちがそれらの事柄を、神的な文書の権威からよりも、むしろ私たちの感知から表明しているようにあなたに見られないようにするために、あなたは、『諸々の数の書』に戻り、祭司ピネハスが何を行ったかを思い起こしてください:彼は、ミディアン族の遊女がイスラエル人の男と共に、すべての人たちの諸々の目の下で、不純な諸々の抱擁に夢中になっているのを見たとき、神的な嫉妬の怒りに満たされ、剣を握って両人の胸を始末しました[2]。その業は、主によって正義のために彼に対して考慮されました。なぜなら主は、「ピネハスは、私の激怒を静めた。そしてそのことは、彼に対して正義のために考慮されるだろう」と言っているからです[3]

ですから、怒りのそのような土地的な食べ物は、私たちの食べ物になります――私たちが理に適った仕方で正義のためにその食物を使うとき。

ところが、理に適わぬ仕方で怒りが起こされ、その結果(その怒りが)、無害な人たちをばっするなら、まったく過失を犯していない者たちに対して(怒りに)沸騰するするなら、その食べ物は、野の獣たちと土地の這うものたちと天の飛ぶものたちのものになるでしょう。実に悪霊たちは、それらの食べ物で養われます。なぜなら悪霊たちは、それらを食み、それらを優遇するからです。たとえばカインは、その業の証拠です。彼は、無害の兄弟を嫉妬の怒りによって欺きました[4]

さらに、貪欲についても、その種の個々の情動についても、同じように感知されねばなりません。すなわち、「私たちの魂が、生ける神に向かって貪欲し、渇望する[5]」なら、貪欲は、私たちの食べ物です。ところが、私たちが他の夫人を貪欲するために見たり[6]、隣人の諸々の財を何かを貪欲するなら[7]、貪欲は、野獣的な食べ物になります。たとえば、イズレエル人のナボトのブドウ園を巡るアハブの貪欲とイゼベルの行為がその例になり得ます。

もちろん、諸々の言葉の理拠における聖文書の慎重さにも、注目されねばなりません:それが、人間たちについて「見よ、私はあなた方に、土地の上にある一切の種子的な<草>と、土地の上にある一切の木を与えた。それは、あなた方にとって食べ物になるだろう[8]」と言ったのに、獣たちには、「私は、それらすべてをそれらに食べ物として与えた」とは言わず、「それらにとって食べ物になるだろう」と言っています。それ故、私たちが説明した霊的な理拠に従えば、それらの諸々の情動は確かに神によって人間に与えられたものであると知解されますが、土地の獣たちには食物になるだろうと神いよって予言されれていると知解されます。ですからしがたって、神的な文書は、極めて注意深い話しを使いました。すなわち、神は人間たちに「私はあなた方に、それらを食べ物として与えた[9]」と言ったと、(神的な文書は)言っていますが、(その文書が)獣たちの許に来たとき、命令者の意図ではなく、預言者の意図として、それらは、駆者たちにも翼あるものたちにも這うものたちにも食物になるだろうと、(聖文書は)言っています。

しかし私たちは、使徒パウロの判断に従って、「私たちは朗読に専念ましょう[10]」。それは、私たちが次のことができるようになるためです:すなわち(パウロ)自身が言っているように、「キリストの感知[11]」を受け取り、「神によって私たちに恩賜された諸々のものが何であるか[12]」を知ることができるようなるためであり、私たちに与えられた諸々のものを私たちが豚どもや犬ども諸々の食物にせず、次のような諸々の食べ物を私たちが私たちの中に準備するようになるためです:すなわちそれら(の食べ物)によって、私たちの心の持て成しの中で、神のみ言葉であり御子――彼はご自分の父とともに来て、私たちの許で住居を作ることを望んでおられます[13]――が聖霊の内に迎えられるに相応しいものとなるような諸々の食べ物です。私たちは、先ず、聖性によって、その聖霊の神殿にならなければなりません。彼に「栄光が、代々永代にありますように。アーメン[14]」。



[1] Gn.1,29-30.

[2] Cf.Nb.25,6-8.

[3] Cf.Nb.25,11-13 et Ps.105,31.

[4] Cf.Gn.4,8.

[5] Cf.Ps.83,3.

[6] Cf.Mt.5,28.

[7] Cf.Ex.20,17.

[8] Gn.1,29.

[9] Gn.1,29.

[10] Cf.1Tm.4,13.

[11] 1Co.2,16.

[12] 1Co.2,12.

[13] Cf.Jn.14,23.

[14] Cf.Rm.11,36.

 

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