「そして神は言われた:水の中間に天蓋が成れ。そしてそれが、水と水の中間の分割者と成れ。そして、(天蓋が)そのように作られた。そして神は、天蓋を作った[1]」とあります。

神は既に前もって天を作りましたが、今度は天蓋を作ります。実際、彼は先ず天を作りました。それについて彼は言っています:「天は、私にとって座である[2]」と。しかしその後、彼は天蓋(firmamentum)、すなわち、物体的な天を作ります。実際、一切の物体は、疑いもなく堅固で(firmum)固いいです。そしてそれが、「天の上にある水と、天の下にある水とを分ける[3]」ものです。

実に、神が作ることになるすべてのものは、霊と物体とから成り立ちますから、それが理由で、「元の中で、そしてすべてのものに先立って、天すなわち霊的実体――神がその上に、あたかも玉座と座との中で安らうところの霊的実体――が作られたと言われます。しかし他方の天、すなわち、天蓋は物体的です。ですから、私たちが霊的であると言ったあの第一の天は、私たちの精神です。それは、それ自体で霊です。すなわち、神を見かつ凝視する私たちの霊的人間です。しかし他方、天蓋と言われるあの物体的な天は、物体的に(物を)見詰める私たちの外的な人間です。

ですから、天蓋は、それがその上にある諸々の水とその下にある諸々の水との間を分けることから、天と呼ばれたように、物体の中に置かれた人間も、天蓋の上にある優れた諸々の水と天蓋の下にある諸々の水とが何であるかを区別し識別することができるなら、それ自身も天、すなわち、使徒パウロの判断に従って「天的な人間[4]」と呼ばれます。彼は言います:「しかし私たちの暮らしは、諸々の天の中にあります[5]」と。

ですからそのように、()文書の諸々の言葉それ自体は、それらの事柄を含んでいます:「そして神は、天蓋を作った。そして、天蓋の下にある諸の水の中間と天蓋の上にある水の中間との間を分けた。そして神は、天蓋を天と呼んだ。そして、神は、それが善いことを見た。そして晩が作られ、朝が作られた。第二の日(である)[6](とありました)

ですからあなた方の一人ひとりは、上方にある水と下方にある水との分割者になるように努めるべきです――すなわちそれは、(一人ひとりが)天蓋の上にある霊的な水の知解とその水の参与を獲得して、「永遠的な命の中へと湧き上がる生ける水の諸々の流れを自分の腹から[7]」導き出すためであり;(一人ひとりが)下方にある水、すなわち、諸々の闇がその中にあると言われるところの深淵の水、そして、既に上で示されたように、「この世の支配者[8]」と敵対的な「竜とその使いたち[9]」がその中に住むところの深淵の水からウ難いもなく分離され、切り離されるためです。

ですから、諸々の天の上にあると言われているそのような上方的な水の参与によって、信者たちの一人ひとりは天的になります:すなわちその人は、諸々の崇高で至高な事柄の中に自分の感知を持つとき、土地について何ものも考えず、ただ全面的に諸々の天的な事柄について考え、「キリストが父の右()の中にいるところの上方にある諸々の事柄を探求します[10]」。実にその時、その人自身も、ここに書かれている賛美に値するように神によって見なされます:「そして神は、(それを)善いと見た[11]」と、(神は)言っています。

その後に、引き続く諸々の箇所の中で第三の日について記述されている諸々の事柄も、この同じ知解の中に適合します。

実際、(聖文書は)言っています:「そして神は言った:天の下にある水は、一つの集まりの中に集められるべきである。そして、乾いたものが現れるべきである。そしてそのようにされた[12]」と。

ですから私たちは、「天の下にある水」を集め、それを私たちから投げ捨てるように努力すべきです。それは、そのことが為されたとき、肉の中で為された私たちの諸々の業である「諸々の乾いたもの」が現れるようになるためです:それによってすなわち、「私たちの善き諸々の業を見た人間たちが、諸々の天の中にいる私たちの父を栄光化するためです[13]」。実際、もしも私たちが、天の下にある諸々の水、すなわち、私たちの身体の諸々の罪と諸々の悪徳とを、私たちから分離しなかったなら、私たちの乾いたものは現れ得なかったでしょうし、光の方へ前進することの確信を持つこともできなかったでしょう。「実際、悪く振る舞う一切の人は、光を憎み、光の方に来ません。それは、自分の諸々の業が責められないようにするためです。他方、真理を行う人は、光の方に来ます。それは、自分の諸々の業が明らかにされ、見られるようになるためです――もしもそれらが神において行われたなら[14]」。ともかく、諸々の罪の質料である身体の諸々の悪徳を、もしも私たちが、諸々の水ように私たちから投げ捨て、分離しなければ、この確信は与えられないでしょう。そのことが行われれば、私たちの乾いたものは、引き続く諸々の箇所から明示されるように、「乾いたもの」のまま留まらないでしょう。

実際(聖文書は)言っています:「そして、天の下にある水は、その諸々の集まりの中へ集められた。そして乾いたものが現れた。そして神は、乾いたものを土地と呼んだ。そして(神は)諸々の水の諸々の集まりを諸々の海と呼んだ[15]」と。ですからこの乾いたものは、上に私たちが言ったように、水がそれから分離されると、もはや「乾いたもの」に留まりませんでした;むしろ、「土地」と名づけられます。それと同じように、私たちの諸々の身体も、もしもそれらからのその分離が為されるなら、もはや「乾いたもの」には留まらないでしょう。むしろそれらは、神のために実を結ぶことができることから、「土地」と呼ばれるでしょう。

ともかく「元の中で神は、天と土地を作りました」が、その後(神は)「天蓋と乾いたもの」を作りました。そして、「天蓋を天と呼びつつ」、彼が前もって創造した天の名前をそれに授けました。他方、彼は、「乾いたものを土地と呼びました」が、それというのも、彼が諸々の実を結ぶ能力をそれに惜しみなく与えたからです。ですからもしも誰かが、自分の過失によって乾いたままであり、如何なる実りももたらさず、火の諸々の餌を運ぶかのように、「諸々の茨と諸々のあざみ[16]」をもたらすなら、その人は自分がもたらした諸々の事柄に即して、彼自身も「火の餌[17]」になります。他方もしも人が、勤勉と自分の熱意とによって悪霊たちの諸々の感知である深淵の諸々の水から自分を分離して、自分が実り豊かな土地であることを提示したなら、その人は、(かつてのイスラエル人の民と)似たような諸々の事柄を希望すべきです。なぜなら彼自身も、神に余手、「乳と密とを流す土地[18]」の中に案内されるからです。



[1] Gn.1,6-7.

[2] Is.66,1.

[3] Gn.1,7.

[4] Cf.1Co.15,47.

[5] Ph.3,20.

[6] Gn.1,7-8.

[7] Cf.Jn.4,14; 7,38.

[8] Jn.12,31.

[9] Ap.12,7; 20,3.

[10] Col.3,1.

[11] Gn.1,10.

[12] Gn.1,9.

[13] Cf.Mt.5,16.

[14] Jn.3,20s.

[15] Gn.1,9.

[16] Gn.3,18; He.6,8.

[17] esca ignis; cf.Is.9,18. 新共同訳では、「火のもえくさ」となっている。

[18] Cf.Ex.3,8; 33,3 etc.

 

次へ