「そして土地は、草――類に即して、そして、類似に即して種を生み出す野の草――生み出した。そして実を作る実り豊かな木――その種は、土地の上での類似に即してその(実りの)中にある――を土地は生み出した。そして神は善いと見た。そして晩が作られた。そして朝が作られた。第三日である[1]」とあります。

(神は)土地に、「野の草」を生み出すことを命じているだけでなく、常に実りをもたらすことのできるように、種を生み出すことを(土地に)命じています。そして彼は、「実り豊かな木」を生み出すことを(土地に)命令するだけでなく、「実を作る実り豊かな木――その種は、類に即してその(実の)中にある――をも生み出すことをも(その土地に命令しています):すなわち、みずからの中に持っている諸々の種から常に実をもたらすことができるように。

ですから私たちも、そのように実を結び、諸々の種を私たち自身の中に持つべきです、すなわち、すべての諸々の善き業とすべての諸々の徳との諸々の種を私たちの心の中に保持すべきです:それは、私たちがそれら(の種)を私たちの諸々の精神の中でしっかり持つことにより、それらから私たちの中に走り込んでくるすべての諸々の行いを、正義に即して行うようになるためです。実にそれらが、その種の諸々の実、すなわち、「私たちの心の善い倉庫[2]」から表に出される私たちの諸々の行い――です。

他方、もしも私たちがみ言葉を聞き、その聴聞から直ちに私たちの土地が草を生み出し、そしてその草が成熟へと、あるいは、実りへと至る前に乾燥したなら、私たちの土地は「岩だらけ[3]」と呼ばれるでしょう。しかし、言われている諸々の事柄が私たちの心の中で諸々のより深い根によって押し当てられ、諸々の業の実りをもたらし、将来の諸々の事柄の諸々の種をそれ自身の内に持つようになるなら、私たちの一人ひとりの土地は、みずからの徳に応じて実をもたらします:「他の人は百倍の、他の人は六十倍の、他の人は三十倍の(実をもたらします)[4]」。しかし、次のことこ想起する必要があると私たちは思いました:すなわち私たちの実は、如何なるところにもzizaniaを、すなわち如何なるところにも毒麦を持つべきでなく、(私たちの実は)「道端」にあるべきでなく[5]、道それ自体の中に、「私は道である[6]」と言っておられるその道の中に播種されるべきだということです。それは、「天の諸々の鳥たち[7]」が私たちの諸々の実も私たちの葡萄畑も食べ尽さないようにするためです。しかしながら、もしも私たちの誰かが葡萄畑にであることに相応しかったなら、その人は、葡萄の代わりに諸々の棘をもたらさないように注意すべきです。そしてそれ故に、(その葡萄畑が)整備されず、掘り起こされず、諸々の雲がその上に雨を降らせることを命令されず、むしろ、その反対にあれたまま放置されるなら、その上で諸々の棘が増えるでしょう(そうならないように注意すべきです)[8]



[1] Gn.1,12-13.

[2] Lc.6,45.

[3] Cf.Mt.13,5-5,20.

[4] Cf.Mt.13,8,23.

[5] Cf.Lc.8,5.

[6] Jn.14,6.

[7] Cf.Mt.13,4; Lc.8,5.

[8] Cf.Is,5,2,6.

 

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