「そして神は言った:『諸々の水は、生きている動物たちの中でも這うものたちと、土地の上を天の天蓋に即して飛ぶ鳥たちを生み出すべきである』と。そして、そのように作られた[1]」とあります。

文字に従うと、神の命令によって諸々の水から「這うものたちと鳥たち」が生み出されます。そして、私たちが見る諸々のもの――それらは彼によってつくられました――を私たちは認識します。

しかし私たちは、さらに天の私たちの天蓋、すなわち、私たちの精神や心の堅固さに即して、それらの同じもののがどのようにして生じるか見てみましょう。

私は次のことを思います:もしも私たちの精神が私たちの太陽キリストによって照らされたなら、その後、私たちの精神の中にある諸々の水から、「這うものたちと鳥たち」を、すなわち、諸々の善い考えや諸々の悪い考えを白昼に表明することを命じられます――諸々の悪しきものからの諸々の善きものの分離が生じるために。それらの者はともに心から発出します。実際、私たちの心から、あたかも諸々の水から出るかのように、諸々の善い考えと諸々の悪い考えが表明されます。しかし私たちは、神のみ言葉と指令によって、両者を神もみ前と判断の許に差し出します――ご自身の照明によって私たちが、善きものから悪しきものを識別する、すなわち、土地の上を這い、土地的な思い煩いを引き起こす諸々の事柄を私たちから分離することができるようになるためです。

他方、諸々のより善きもの、すなわち、「鳥たち」を、私たちは、「土地の上に」ばかりでなく、「天の天蓋に即して」も飛ばせましょう;すなわち私たちは、土地的な諸々の事柄ばかりでなく、天的な諸々の事柄の感知と理拠を扱いましょう――それは私たちが更に、私たちの中にある諸々の有害なものが何であるかを、「這うものたち」から理解できるようになるためです。もしも私たちが、「夫人を欲するために」見たならば[2]、そのことは、私たちの中で有毒な這うものです。しかし、もしも私たちの中に節制の感知があれば、たとえエジプト的な女主人が私たちを熱愛したとしても、私たちは鳥たちになり、エジプト的な諸々の衣服を彼女の手の中に残し、嫌悪すべき諸々の罠から飛び逃げるでしょう[3]。もしも私たちの中に、盗むことを私たちに呼びかける感知があるなら、そのことが最悪の這うものです。しかし、もしも私たちの中に――たとえ「二レプトン(銀貨)」しか持っていなくても――それらを「神の諸々の賜物の中への」憐み(の施し)として捧げようという感知があるなら[4]、その感知は鳥です。それは、諸々の土地的な事柄について何も考えず、天の天蓋へと飛ぶことによって目指します。もしも私たちに、殉教の諸々の責苦を私たちは耐えるべきでないと私たちに勧める感知が私たちに来るなら、そのことは有毒な這うものになるでしょう。しかし、真理のために死に至るまで戦うというような感知と考えが、もしも私たちに昇るなら[5]、それは、諸々の土地的な事柄から諸々の上方的な事柄へと努力して向かう鳥になるでしょう。さらに諸々の津や諸々の徳の他の種類についても同様に感知されるべきであり、「這うものたち」が何であり、「鳥たち」が何であるかが識別されるべきである。私たちの諸々の水は、神の御前での識別のために生み出すことを命じられています。



[1] Gn.1,20.

[2] Cf.Mt.5,28.

[3] Cf.Gn.39,7-12.

[4] Cf.Lc.21,2.

[5] Cf.Si.4,28.

 

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