17 オスマの司教のスペインへの帰還とその死

 

オスマの司教は宣教を行なうため、二年間かの地に滞在した。二年がすぎ、オスマの教区をそれ以上不在にすると、教区の世話をなおざりにしていると責められることもありうるだろうと心配し、一時自分の教区を訪ずれ、そののちいくばくかの金を手に入れるため、スペインへ帰ることに決めた。その後、女子修道院を建設し終えるため、またその地で異端者の誤りを反駁し、真実の信仰を擁護することのできる人びとを叙階するために戻ろうと考えていた。

残った人びとは、霊的な面においては神の心に満ちたフライ・ドミニコの指導の下に、世俗的な面においてはダミエーのギレルモ・クラレーの指導の下におかれた。が後者はなすことすべてをドミニコに報告しなければならなかった。

そののち伴侶に別れを告げ、徒歩でカスティリャを横断し、オスマに到着した。そこで何日もたたないうちに、命取りになった病気にかかり、偉大な聖人としてこの現世の命を終えた。なし遂げた仕事の光栄ある果実をとり入れ、墓を仲介として、豊かなる休息に入っだのである。死後、奇跡により光り輝いたといわれる。この淋しくもの悲しい荒地において、人間の中で持別な思寵を賜わり美しい徳を出し惜しみしなかった者が、神の全能を前にして奇跡を行なっても不思議ではなかい。