パレンシアにおける勉学

 

ドミニコは当時パレンシアで花開いていた教養学科を学ぶためにそこへ送られた。

この学科をすでにじゆうぶん消化吸収したと思われたとき、あたかも短い時をつまらぬことで費やすことを恐れているかのごとく、これらのクラスを放棄して神学の学習ににうちこみ、蜂の巣よりも甘い聖なる教えを懸命に味わい始めた。

四年をこの尊い勉学にささげた。この間、聖書のせせらぎを飲み味わいたいという切望から執拗に着実に努力し、勉学への熱情のあまり幾夜も寝ずに過ごしたほどであった。そして、頭の中に深く彫みこまれた真実なるものは、彼の驚異的な記憶力にしっかりと留められたのである。

この天才児の聡明さは信仰深い愛情によって豊かになり、救霊という果実において芽を出したのである。福音書がわれらに語る真実の言葉の如く、幸いなるかな。 「神の言葉を聞き、それを守るのは幸いである」。

み言葉を修める方法はふたつあるはずである。ひとつは、耳から入ったことを記憶に止めておくことであり、もうひとつは聞いたことを実際に行ないにあらわすことである。だれひとりとして、後者の方が勧めるべきものでわることを疑い得まい。麦の種を長櫃の中にしまっておくより、畑に埋めるほうが良いのと同じように。神の僕は何事もなおざりにすることなく、記憶力はあたかもメモ町のように、次から次へと話の種をひき出したのである。彼の生活態度は聖なみ胸の内にある隠れた宝をほうふつとさせていた。

知識の神は聖なる掟を愛するこの人物の愛情を賞め称え、彼の熱望していることを恩寵として惜しげもなく賜った。乳を消化するばかりでなく、非常に固い食物をも何なく咀嚼するにふさわしい人となるようにと願われたのである。