64 ドミニコの遺体の移転についての総長回状

 

ドミニコ会の愛する修道士たちへ。いつくしまれる神の御子において、ドミニコ会のいやしい総長であり僕である兄弟ジョルダヌスが不滅なる健康と喜びとを願う。

神はその測り知れぬ知恵ゆえに、善を行なう時機をときどき延ばし給う。これは善をわれわれから取り上げるためではなく、待つことによって最も適当な時機に、さらに大きなことをなし給うがためである。神が教会を信仰の中に確定し、さらに深いものになし給うためか、あるいは慎重さの欠ける無邪気さからいろいろな意見の相違があったためか、いずれにせよ、ドミニコ会創立者聖ドミニコの不滅の名は、神によって知られているのみで充分であり、人びとの間に名を馳せる必要は少しもないということが認められていた。

ある闇が修道士たちの心を覆ったので、神の恩寵の恵みに対し、当然起こすべき感謝の念をもって応える人はほとんどいなかった。

神に選ばれた人物の死後、人びとの信心は刺激を受け、さまざまな病いや痛みに悩まされていた多数の人びとが集まり、墓に夜となく昼となく留まり、それで健康を回復したと告白している。そして、肉体の病いの箇所すなわち回復した箇所に従って目や手・足その他の体の部分を表わしているろう製の奉納品を捧げて治癒の証しとし、それを聖人の墓に下げた。確かに、天において所持している光栄の生命を、地上において奇跡をもって表わしたのである。

これを野心と見られることを恐れ、それを口実に、奇跡は受け入れるべきではないと多くの人が思った。

そして捧げられたものをはずして毀した。自分たちの意見に固執し、不誠実にも聖徳を偽装し聖なる光栄を曇らせ、教会の共通の利益に気付かなかった。臆病な心に打ち負かされ、これに反対することもなかった。

このようにして約十二年間、父・聖ドミニコの光栄は眠りに就いたままで、尊敬を受けることもなかった。

有益な宝が役立つこともなく隠され、恩寵の与え主である神は、その悩みを取り去ってしまわれた。裁きの公正さは、神の恩寵と光栄を隠そうとした人びとから余儀なく恵みを取り上げてしまわれた。なぜなら、もし種子が芽を出した時に何度も踏みつければ、実は成らぬであろうから。ドミニコの徳は何度も芽を出したが、息子たちの怠慢がその成長を阻んだ。忍耐強く大変情け深い彼は、辛抱強く待っていた。しかし、神の人・聖ドミニコを崇敬するように勧める声は聞かれず、心にも留められなかったので、主は修道士たちの怠慢な心を奮い立たせる機会をお与えになった。

ボローニャは修道士の数が増加したため、修道院と教会を拡張する必要に迫られた。新しい建築物のために古いものは取り壊され、神の僕の遺体は野天に放置された。清廉の鏡、貞潔の器、童貞の厨子、聖霊の器であった体、十二人の修道士を前にしての最後の告解で明らかにしたように、生涯一度として大罪を犯し霊の宿から客を迫い出したりはしなかったあの人の体を、そのように粗末な墓に収めておくのが良いと、理性のある人間なわだれが思うだろうか。何人かの修道士がわれに返り、もう少し誉れの高い場所へ墓を移そうと試みた。しかし、教皇の許可なしに実行することははばかられた。謙譲の徳はより大きな称賛をもたらすことが多くの例で証明されている。兄弟であり同時にまた息子でもあった修道士は、自分たちの手で父を葬ることもできた。が、より大きな権威を求め、よりよい結果を得たのである。つまり、単なる遺体の移転ではなく、宗規にのっとった正規なものとなった。

しかしながら、修道士たちが恥にならぬような骨壷を用意し、教皇グレゴリオのもとへ許可を求めに行っている間、時間がいくらか経過した。教皇は熱意と信仰の人であったから、しかるべき名誉をもって父を扱わなかったことを激しく非難して言った。 「私は、この全ての使徒的規律の完全な実行者であったこの人を良く知っている。彼が栄光のうちに使徒たちと協カしていることを疑わぬ」。その後で、ラボンヌの大司教に手紙を書き、教皇自身は職務に拘火されて出席できぬゆえ、彼が補佐の司教たちを連れて出席するようにと命じた。

全能の神は、全教会の牧者の機能を用いて、無関心より生ずる霧をこのようにして人の目に示そうとなし給うたのである。そして天上のエルサレム全体が、偉大な同胞の光栄が人間に啓示されたことを喜び祝っていることを示すため、神ご自身いと高きところより手をひろげられ、奇跡の轟きを響かされた。つまり、すでに嫉妬の炎を捨てさり、愛によって結ばれている聖人たちは、豊かな祝福の手を拡げようとしたのである。盲人は視力を、跛は動きを、なえた者は健康を回復し、おしが話し、悪魔は追い出され、熱が下り、さまざまな病は追放され、神により選ばれた聖ドミニコの聖性が証明された。長い間なえていたイギリス人のニコラスが、この儀式の時に床から飛び立ったのをわれわれは目にした。ある誓いをすると、治癒不可能な皮膚病が治った。膿瘡が去り、他の数多の奇跡が明るく光り輝いた。これらの奇跡は、彼の列聖の時、教皇および枢機卿の前で読み上げられ発表されたものである。死んでいく肉をまとっていた時には、信仰の本を炎の中から無事取り出し、聖母が病気の修道士の上に現われることを預言し、十字の印で雨を止め、森の中では祈りをもってカンテラに火をけし、浴衣を着ているがために落ち入っていた迷いからあの修練士を救い出し、悪魔を十字架で追い払い、ふたりの人間に肉体の死を、他のふたりに霊の死を知らせ、ローマではふたりの人を生き返らせた。死の時には彼を呼んでいるキリストを見、彼の弟子のひとりがミサを捧げていると冠を着けて現われ、他の弟子には、聖マリアと御子がふたつの白い梯子で引き上げている光栄の玉座に就いた姿で現われた。こういうことをした人が死後神とともに君臨し、あれらの奇跡を行なってもそれは不思議なことではない。教皇グレゴリオが彼の列聖に際して出した教書は他の数多の有名な奇跡や、彼の徳高い生涯がいかに完全なものであったかを言明している。

このすぐれた碩学の遺体を移す目がやって来た。ラボンヌの大司教および数多の司教や高位聖職者が集まった。数多の地方から出て来た大衆の信心が満ちあふれ、彼らが聖なる遺体を奪い去らぬように、ボローニャの武装軍が出動した。修道士たちは、聖ドミニコの遺体が長い間ごく普通の墓に葬られて、厳しい雨と暑さ晒されていたため、墓が開かれると、他の人びとの遺体と同じように虫に荒わされていて悪臭を放つのではないか、またそのために偉大な聖人への信心が曇るのではないかと、実際には必要もないのに憂慮し悩み青ざめ、祈っていた。何をして良いのか解らず、全てを神に委ねるほかには慰めがなかった。

諸司教が祈りながも来、他の人びとが適当な道具を持って来て、墓に強く漆喰で取り付けられていた石を上げた。その石の下には、教皇グレゴリオがオスティアの司教であったた時に安置した同じ場所に、象眼の棺があった。

棺の上側には小さい穴があり、平石を上げるか上げないうちに、そこから素晴らしい香りが立ち登った。その芳香の源が解らなかったので、そこにいた人はみな恐怖におそわれた。棺の蓋を開くように命令され、開けられると、あたかも香水店、芳香の天国、ばらの園、ゆりとすみれの野、すべての花に優るこころよいものを開けたように思われた。ボローニャは、以前には入ってくる車のため、耐え難い悪臭の被害を受けていた。しかし光栄あるドミニコの墓が開けられると、どのような香水にも優るあの薫が全てを浄化した。周囲にいた人びとは恐怖を感じ困惑した。それから甘美な涙が始まり、また喜びと恐れと希望が交錯した。そして素晴しい香水を快よく感じ、霊は甘美な闘いのなされる戦地と化した。

われわれもその芳香の甘さを感じ、ここに見たり経験したりしたことの真実性を証言する。神の言葉の使者聖ドミニコの遺体の側に長い間いたけれど、一度とこてその甘美な匂いに厭きることはなかった。快よさは不快を遠ざけ、信心を起こさせ、奇跡を誘発した。手やひも、あるいは何か他の物も遺体に触れると、長い間匂いが残った。

神の恩寵により明るく清く童貞を守った人の体が、創世主の光栄と名誉のために死んだ後に、その童貞の証を与えたのは確かに相応しいことであった。淫らな悪臭の放たれなかったところにいま快よい芳香が流露すること、地上において童貞の清さと全ての徳を所有していたことにより聖霊のかぐわしい器であった人が、いま地下で匂いの良い香油の雪花石膏に変わったこと、ひとつの香水が別の香水に変わったことは、すべて相応しいことであった。

おお、快よい芳香よ、言うに言わぬ薫よ。その快よい薫を、もし古の族長イサックががいだならば、喜んでこう言ったであろう。 「神が祝福し給うた野の薫のような私の息子の薫がここにある」。主は、「この人は主の祝福とあわれみを受けるであろう」という聖なる言葉の証となった人を祝福された。生きている時には天上の人のような徳に輝き、死後には墓から湧き出す芳香によって深淵から輝いた人に、主は数多の祝福を用意され、実際に与え給うた。それゆえ、死後にも祝福の絶えることはなかった。

あの薫は強く素晴しかったので、その常ならぬ匂いは他のいかなる香りにも優り、自然のものには思えなかった。聖なる遺体の骨・塵・骨壷から匂ったばかりでなく、それに触れたものにはどれにでも香りが移り、遠いところに運ばれた後にも長い間芳香が残った。神聖な遺物に触れた修道士の手にも同じように香りが移って、何日間も洗ったりこすったりしてもまだ残っていた。

同市の大勢の人びとが、神聖な塵に触れることにより、いろいろな病から回復した。救世主の知恵は慎重に静かに数多の物を整えられたので、生きている時にその言葉が病める霊の良く効く薬であったあの人の体は、死者の体に生命を与える役を果たし、また童貞であったがゆえに天使たちの弟であったあの人の聖なる肉体は、光り輝いた奇跡により、死を免れない人間のうちにあって全尊敬に相応しいものとされた。全ての徳を分かち与えられる聖霊が長い間宿っておられたあの体、その体の塵が霊的徳を、長らえたとて不思議であろうか。

遺体は薫とともに葬られるため、大理石の墓に運ばれた。聖なる遺体からは素晴しい芳香が立ち登っていたが、その香りがキリストのものであることがみんなにはっきりと解っていた。

大司教が荘厳ミサをあげ、聖霊降臨三日目であったので、合唱隊が入祭文「天の王国にあなたたらを招いている神に感謝し、光栄の喜びを受けよ」を歌った。天から発せられたもののように、修道士たちが歓喜のうちに聞いた声々。トランペットが響き、民衆は数え切れぬ程の松明を点し、きらびやかな行列が催され、どこでもキリストのみ名が祝福された。

グレゴリオ九世が教皇職を司り、フレデリック二世が帝国を治めている一二三三年五月二十四日ボローニャ市でこの文書がしたためられた。訓令六。われらの主イエス・キリストとその忠実な僕ドミニコの名誉と光栄のために。

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