予型と真理

2.  ですからエジプトは、数々の予型をあらかじめ告げ知らせればよいのです。律法は、真理の数々の像を解説するがよいのです。そして伝令は、偉大な王の偉大なご来訪を宣べ伝えるがよいのです。そしてその地で、エジプトの一群の初子たちが死に、神秘的な血[1]がイスラエルを救うがよいありましょう。それらはみな、数々の来るべきことの影なのであります。ところが私たちのうちには、諸々の像の原形[2]が、諸々の予型の実現が、影に代えて真理の厳格さと確証そのものがあるのであります。 2 こういうわけで、律法は、あらかじめ先に進んで、真理の数々の原形を予型のうちに指し示したのです。先ず予型が存在し、次に真理が見出されたのであります。あそこでは小羊は、家畜の群れから(取り出され)、ここでは小羊は、天から(降って来ました)。あそこでは血のしるしと万民の小さなお守り(であったものが)、ここではみ言葉、そして神的なおん血と霊とに満たされた杯(となったのです)[3]。羊は、あそこでは、羊の群れから(取られましたが)、ここでは羊飼いご自身がその羊に取って代わっているのであります。



[1] to. mustiko.n ai-ma

[2] tw/n eivko,nwn ta. morfw,mata

[3] e,kei/ to. shmei/on kai. to. ovli,gon tou/ panto.j fulakth,rion( evnqau/ta o` lo,goj <kai.> o` krath.r qei,ou ge,mwn ai[matoj te kai. pneu,matoj; これらの語句で、聖体祭儀が暗示されていることは明らかである。「杯」を前にして司祭が述べる「み言葉」は、聖体祭儀で本質的な役割を果たす。「()霊」は、祭壇に上げられた教会の奉げ物を聖化する。そして旧約時代にはしるしでしかなかった「血」は(Ex.12,13)、新約時代には救いをもたらす「神聖なおん血」なった。