1 キリストの到来は何であるのか

44. キリストのご到来は何だったのでありましょうか。それは、奴隷状態からの逃避、古い束縛からの解放、自由の元、誉れある養子縁組、罪の赦しの源、あらゆる点で真実な不死の生命であります。

 

45. み言葉は、私たちが死によって虐げられ、腐敗の絆によってばらばらにされ、と同時に結び付けられ、もはや戻ることのできない必然の道に流れ落ちるのを上からご覧になり、おん父の数々のみ旨のままに最初の造形物[1]の<本性を>お取りになっておいでになりました。そして私たちのための奉仕を天使たちや大天使たちにお任せにならないで、み言葉おんみずから私たちのための全戦いを、おん父の数々のご命令に従いながら、お引き受けになったのであります。 2 そして純然たる神的な霊は、すべての人にとって近寄りがたく、何ものもその霊の混じり気のない息吹に共感することができないほどでありましたが、みずから進んで、ご自分をご自身において引き締め、神性の一切の偉大さをご自身のうちに寄せ集め一つにまとめられ、ご自身において減少することなく、品位を落とすこともなく、また、栄光を損なうこともなく、(当初)お望みになったままの(尊い)ありさまで、ご来臨なさいました。そしておん父の卓越した力によって、(かつて)持っていたものを失うことなく、持っていなかったものを(新たに)付け加えながら、(おとめマリアに)受け容れられようとお望みになったときの(尊い)ありさまで、(この世に)来られたのであります。 3 しかし (救われる)最初の人たちが(真の)人間的な本性と実体とに与るには、神的な霊を受け容れる何らかの容器が必要でした。そこで神的な霊は、<人間の本性をご自分に>引き寄せて濾過し、余計なものや不潔なものをふるいにかけて切り離しました。そして清く輝かしく混じり気のないものを照らし出し、星のようにきらめかせ、また、燃え立たせ、婚礼の寝屋に仕立て上げて、純潔に保ち、いわば天使のようになさいました。こうして神的な霊は、ご自分を身体的に人間の姿に変えて、霊的な日の出を保ちながら、身体的な姿をさらにお持ちになったのであります。 4 このようなわけで、聖書は、このおん方をこの上もなく神秘的な仕方で指し示したのであります。すなわち、「見よ、この男を。彼の名は日の出[2]」と言われています。彼は、霊においては日の出[朝日]であり、身体においては男なのであります。確かに「主の霊があなたに臨み、いと高きおん者の力があなたを覆うでしょう。それゆえ、お生れになる子は聖なる方で、いと高きおん者の子と呼ばれるでありましょう」。そしてその誕生は不可思議で神的なものでございましたので、()霊でさえ驚かれ、適切にもこう言われたのであります。「誰が彼の出生を物語るだろうか[3]」と。

 

46. さて、神的な霊が特にそれを通して信じられるところの、神性を指し示す主な名称には、主権、神性、長子権[4]、そして永遠の王権という四つの名称がありますが、ただ神的な霊だけがそれらの誉れと栄光を受けるに足る栄誉を授けられたのではないことをお考えください。先ずここで、特に主のことをお考えください。「主は私の主に言われた。私の右に座りなさい[5]」とあります。あなたは、ここでその主が主に由来するものであることがおわかりになるはずです。次に、ここでおん子をご覧ください。「彼は私に父と言って呼びかける。私も彼を初子としよう[6]」とあります。また、「お前は私の子である。私は、今日、お前を生んだ。私に求めよ。そうすれば、私はお前に与えよう。諸国の民をお前の嗣業として[7]」とあります。ここであなたはおん子、初子、おん独り子がおわかりになるはずです。また、神のことをお考えください。こう言われていおります。「背の高い男たちがあなたのもとに来て、あなたに哀願し、あなたのみ前にひれ伏し、手かせをはめられてあなたに従う。確かにあなたは神です。なぜならあなたのうちに神がおられますから[8]」と。あなたは、まさしくここに、神をご覧になったはずです。またここで、永遠の王をご覧ください。「神よ、あなたの玉座は、代々とこしえに。あなたの王国の笏は公正の笏。あなたは正義を愛し、不正を憎まれた。それゆえ、神、あなたの神は、あなたのともがらにまさって、喜びの油をあなたに注がれた[9]」と言われています。あなたはここで、王をご覧になりました。王の次に、諸々の力の主をも見てください。こう言われています。「諸々の支配者よ、あなた方の扉を上げよ。永遠の門よ上がれ。栄光の王が入られる。その栄光の王とは誰か。栄光の王とは、諸々の力の主である[10]」と。あなたはここで、王と並んで、諸々の力の主をご覧になるはずです。さらにここで、その他のもの[名称]の中から、永遠の大祭司(という名称)をご覧ください。「主はお誓いになった。そして悔やまれることはない[11]」とあります。 2 しかしながら主であり神でありおん子、そして王であり諸々の力の主であり永遠の大祭司であるとしても、また一方で、「そのおん方は人間でもある。しかし誰が彼をしるだろうか[12]」というような意味のことも言われております。しかし「人間でもある」ということはすなわち、先ずあらかじめ「神でもある」ということなのであります。そして人間たちの数々の思いなしに従って、偶然にそして何の誕生もなしに、まぼろしや霊気が地上に訪れたと思われないようにするために、ここで、彼が幼子にもなられたことに耳を傾けてください。こう言われています。「聞け、ダビデの家の者たちよ。お前たちは、人間にもどかしい思いをさせる[心配をかける]だけでは足りないのか。どうして主にもどかしい思いをさせるのだ。主は、おんみずから、お前たちにしるしを与えられる。みよ、おとめが身ごもって、(男の)子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれるだろう[13]」。また、「彼らは火で焼かれたとき、望んだ。それゆえ、幼子がわれらのために生まれた。彼の肩には主権がある。そして彼の名は、偉大なる助言の使者、驚くべき助言者、力ある神、平和の君、来るべき代の父と唱えられる[14]」とあります。



[1] to. prw,tou pla,sma

[2] Za.6,12.

[3] Is.53,8(LXX).

[4] ui`o,thj

[5] Ps.109,1.

[6] Ps.88,27-28.

[7] Ps.2,7-8.

[8] Cf.Is.45,14.

[9] Ps.44,7-8.

[10] Cf.Ps.23,7-10.

[11] Ps.109,4.

[12] Ir.17,9(LXX).

[13] Is.7,13-14.

[14] Is.9,4-5(LXX).