2 なぜ身体と共に

47. 偉大なるイエズスは、実にこのように神そして人間として、私たちのところに来られました。ですから、信じない者が誰もいないようにしなければなりません。また、権威ある霊が人間の身体によって受け容れられたのであります。 2 と申しますのも、地上のアダムは、泥でありながら、おん父からの最初の神秘的な息吹を受け容れたからであります[1]。実際、神的な霊は、神のみ旨に従って、身体と結合するのを妨げられるものではございません。そしてもしもこの最初の土が神聖な息吹を受け容れたのであれば、生命を与えられた身体はキリストの不死の生命を受け容れたでありましょう。 3 したがって、もしも(キリストが)ただ息吹として訪れ、罪と死に服したにすぎないとすれば、身体の偉大な到来は、余計なことになったでありましょうし、罪も死も打ち負かされることはなかったでありましょう。しかし罪は取り除かれ、身体は自由にされねばなりませんでした。 4 そしてそれゆえに、「彼は罪を犯さず、またその口に偽りは見いだせなかった[2]」と言われるのであります。

 

48. ですから、彼みずから、あの最初の貧弱で死せる身体を身にまといました。それゆえ、霊も彼についてこう叫んでおります。「彼には見るべき面影も輝かしい風格もなかった。私たちは彼を見た。しかし彼には、見るべき風格も美しさもなかった。彼の風格は汚され、人間の子らに見捨てられた[3]」のだと。なぜなら「彼は、罪がなかったのに、罪深い肉のありさまで、罪を断罪された[4]」からであります。そして「医者を必要とするのは健康な人たちではなく、病気の人たちである[5]」ことをお示しになられました。確かに彼は、数々の弱さに満ちた私たちのすべての身体の世話をしてくださり、あるいは、(ご自身の)力の権能によって、諸々の病から私たちの身体を次々と癒してくださったのであります。こうして(聖書の次の言葉が)成就いたしました。「私は主、神である。私は正義のうちにあなたを呼んだ。私はあなたの右手を取り、あなたを強める。私は、私の民の契約として、諸国の民の光として、あなたを立てた。目の見えない人々の目を開かせるため、捕われ人たちをそのかせから解き放ち、闇に座る者たちを捕われの家から救い出すため。私は神なる主、これが私の名前である[6]」。「耳の聞こえない者たちよ、書物の言葉を聞きなさい。闇の中に座る者たちに光が昇った[7]」。「そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がり、口の利けなかった人の舌は軽くなる[8]」と。そして悪に由来するものが一つひとつ取り除かれたとき、「最後の敵として死が」永久に「滅ぼされるでしょう[9]」。「死よ、お前のとげはどこにあるのか[10]」と(言われることになるのであります)



[1] Gn.2,7.

[2] Is.53,9.

[3] Is.53,2-3.

[4] Cf.Rm.8,3.

[5] Lc.5,31.

[6] Is.42,6-8.

[7] Cf.Is.29,18 et 9,1.

[8] Is.35,6.

[9] 1 Co.15,26.

[10] 1 Co.15,55.